向井千秋
向井 千秋(むかい ちあき、旧姓:内藤、1952年(昭和27年)5月6日 - )は、群馬県館林市出身の日本人女性初の宇宙飛行士。慶應義塾大学医学部卒、医学博士。
夫は医師で慶應義塾大学准教授の向井万起男。実弟は釣り師のヒロ内藤である。
来歴・人物
群馬の館林北小から館林市立一中へ進み、この頃医師を志すようになる。そのため、学校群制度が施行されて間もなかったとはいえ、東大に多くの合格者を送っていた都立日比谷高校から医学部進学を希望して、親に頼み自ら中学2年次に上京し、品川の荏原二中に転校した。高校受験では、日比谷高、雙葉高、慶應女子高に合格し、日比谷に進学しようとしたところ、当時学園紛争の嵐が吹き荒れていた日比谷の状況を母親・ミツが心配して、ミツが慶應女子高を選択した[1]。
慶應女子高校時代は、医学部進学を目指して、7人もの家庭教師をつけたという“伝説”が生まれたほど頑張っていたが、医学部の附属女子3人枠に入れず、一般受験で慶應義塾大学医学部入学、練習のハードさでいわくつきだった当時の医学部スキー部に入部し、大学5年次には東日本医学部スキー大会の回転で優勝、大回転では3位に入賞した[2]。外科医となってからは、慶應義塾大学病院では、慶應義塾大学出身者としては女性外科医第一号にあたる(同病院には、他大学出身の女性外科医は既にいた)。
外科医をしていた1981年に、解離性大動脈瘤で入院した石原裕次郎の担当医の一人を務めている。この時の白衣がカンフーの道着に似ていたため、裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名をつけられている。
1985年8月10日、宇宙飛行士3人の発表があった。宇宙飛行士は、操縦担当のパイロット(PLT、操縦手)、船外活動のできるミッションスペシャリスト(MS、搭乗運用技術者)、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS、搭乗科学技術者)に分けられるが、向井も含めた外国人搭乗員はPS要員にあたる。当時、操縦手やMSは機密技術の点で外国人に触れさせないNASAの方針からであった[3]。
1994年7月8日 - 23日、スペースシャトル・コロンビア号でのミッション (STS-65) に、ペイロードスペシャリストとして参加。金魚の宇宙酔い実験もした。この時の宇宙滞在時間は14日17時間55分で、女性の宇宙最長滞在記録を更新した(この記録は翌年のSTS-67で破られた)。
1998年10月29日 - 11月7日、スペースシャトル・ディスカバリー号でのミッション (STS-95) で2度目の宇宙飛行。飛行中に「宙がえり 何度もできる 無重力」という短歌の上の句を詠み、これに続く下の句を募集し話題となった。宇宙開発事業団(現JAXA)によれば、14万5千首の応募があったという。
趣味は、スキューバダイビング、テニス、ゴルフ、アメリカ文学、旅行、スキー、アルペンスキー、バス釣り、写真。
略歴
- 1952年、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)で、鞄屋を営む内藤家の長女として生まれる
- 1977年、慶應義塾大学医学部を卒業、外科医となる
- 1983年、旧宇宙開発事業団の宇宙飛行士募集に応募
- 1985年、宇宙飛行士に選出(同期に毛利衛、土井隆雄がいる)
- 1986年、病理医の向井万起男と結婚
- 1988年、慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「大動脈用一時的バイパスチューブの抗血栓性および血行動態に関する研究」[4]。
- 1994年、スペースシャトル・コロンビア号でのミッション (STS-65) に搭乗
- 1998年、スペースシャトル・ディスカバリー号でのミッション (STS-95) にジョン・グレンとともに搭乗
- 2004年、国際宇宙大学 客員教授
- 2007年、宇宙航空研究開発機構宇宙医学生物学研究室長に就任
受賞歴
- 内閣総理大臣顕彰 - 1994年9月6日。授与内閣 : 村山富市内閣。受賞理由は、「日本人初の女性宇宙飛行士」。
- アストゥリアス皇太子賞 - 1999年に国際協力部門で受賞
- 日本宇宙生物科学会 - 1995年度功績賞受賞