シモン・ゴールドベルク
テンプレート:Portal クラシック音楽 シモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg[1] 、1909年6月1日 ポーランド/ヴウォツワヴェク - 1993年7月19日 日本/富山県大山町(現富山市))は、ポーランド出身のユダヤ系のアメリカのヴァイオリン奏者・指揮者。最後の夫人は山根銀二の姪でピアニストの山根美代子。
少年時代にワルシャワでヴァイオリンを学び、1917年よりベルリンでカール・フレッシュに入門。12歳でワルシャワでデビューし、センセーションを呼ぶ。1925年にわずか16歳でドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するが、1929年に退団。同年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの招きで、弱冠20歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任。1930年には、パウル・ヒンデミットやエマヌエル・フォイアーマンと弦楽三重奏団を結成して室内楽演奏を、またピアニストのリリー・クラウスとはデュオを組んでソリストとしての演奏を精力的に続ける。
しかしナチスによる政権奪取の後、1934年に国籍と民族を理由にベルリン・フィルより退団を余儀なくされる。1938年にソリストとしてニューヨークにデビューした後、1942年からアジア楽旅を行なった折、日本軍により、1945年までジャワ島での抑留生活を強いられる。ようやく戦後に再渡米し、1953年にアメリカに帰化した。
1951年から1965年までの15年間にわたって、アスペン音楽学校で教鞭を執るかたわら、指揮活動にも着手。1955年にアムステルダムにてネーデルラント室内管弦楽団(オランダ室内管弦楽団)を結成し、以後22年間にわたって同楽団を指導し、ともに演奏旅行も行なった。1977年から1979年までマンチェスター・カメラータの指揮者に転ずる。
1978年にニューヨーク州のジュリアード音楽学校で、1979年から1982年までイェール大学で、1980年よりフィラデルフィアのカーティス音楽院で、1981年よりニューヨーク州マンハッタン音楽学校で教鞭を執る。1990年より没年まで、新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任。晩年は夏には立山山麓の立山国際ホテルに長期滞在するのを常としており、その地で逝去した。
ゴールドベルクは、指揮者としてはバッハを得意としていたが、ヴァイオリニストとしては、ラドゥ・ルプーとの共演によるモーツァルトやシューベルトのソナタの録音が名盤として、今日でも評価が高い。そこでは、しっとりと濡れたような音色の美しさや、20世紀のヴァイオリニストとしては控えめなビブラート、音楽そのものをいつくしむような作品への誠実な取り組みが認められる。
なお、彼の愛器だったグァルネリ・デル・ジェス『バロン・ヴィッタ』は、現在アメリカ合衆国連邦議会図書館に寄贈され、保管されている。
著書
- シモン・ゴールドベルク講義録(2010年4月、幻戯書房、編集:ゴールドベルク山根美代子)ISBN 978-4901998550
脚注
参考文献
- ゴールドベルク山根美代子『20世紀の巨人-シモン・ゴールドベルク』(2009年9月、幻戯書房)ISBN 978-4901998499