シニシャ・ミハイロヴィチ

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テンプレート:サッカー選手 シニシャ・ミハイロヴィチ(Siniša Mihajlović、テンプレート:Lang-sr1969年2月20日 - )は、ユーゴスラビア(現クロアチアヴコヴァル出身の元ユーゴスラビア代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションディフェンダーミッドフィールダー。愛称は「グランシニストラ(偉大なる左足)」。

略歴

ユーゴスラビアのクラブチーム・FKヴォイヴォディナ・ノヴィサドでデビュー。1990-1991シーズン途中にレッドスター・ベオグラードへ移籍し、主力選手として活躍を見せ、1991年5月16日の対フェロー諸島戦でユーゴスラビア代表デビューを果たした。

1992-1993シーズンにはセリエAローマへ移籍。さらに移籍したUCサンプドリアではスヴェン・ゴラン・エリクソンの指揮の下で活躍。ここではじめてリベロでのプレーをするようになる。1998-1999シーズンからはエリクソンの後を追う形でラツィオへ移籍。

1998年フランスW杯では内戦による混乱から久々に国際舞台に復帰したユーゴスラビア代表としてプレーし、ベスト16入りに貢献した。また同年12月18日の対サンプドリア戦ではフリーキックのみでのハットトリックを達成、翌シーズンはセリエA優勝に貢献する活躍をみせた。

引退直前の2006年4月のアスコリ戦では、セリエA史上最多(27得点目)の直接フリーキックによるゴールを挙げている。

現役引退後はインテルロベルト・マンチーニのアシスタントコーチとして2年間を過ごした。2008年11月にボローニャFCの監督に就任したが、成績不振により2009年4月に解任された。2009年12月からはカターニアの監督に就任した。[1]

2010年5月末にカターニアの監督を辞任、続く6月3日にはフィオレンティーナチェーザレ・プランデッリの後任としてミハイロヴィチが就任すると発表[2]

2011年11月、成績不振により解任された[3]。 2012年5月、セルビア代表監督に就任。

逸話

  • 彼はセルビア人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、親戚などをたどると実はバルカン半島に住む民族すべての血を引いている。だが彼の故郷ヴコヴァルはユーゴとクロアチアの戦争で廃墟となり、彼の実家も両親は追い出され、更に特にクロアチア側の兵士達が憎悪むき出しで攻撃していったと言う(ミハイロヴィッチの友人にはセルビア人極右活動家などがいたためだとされる)。紛争から2年後、故郷を訪れたミハイロヴィチは、自身の顔写真だけが打ち抜かれているのを見てショックを受けたという。
    • その後も雑誌のインタビューでは「両親も含めた『僕らのヴコヴァル』は無くなってしまった。帰るところは無いよ。僕の故郷はイタリアだ」と、蹂躙された故郷への悲しみを苦々しく語っている(彼の夫人はイタリア人。彼はセルビア国籍だが、長くイタリアに在住しておりイタリア市民権を持っている)。
  • カッとなりやすい性格であり、先に挙げた故郷での事件の意趣返しのような反クロアチア的な発言を行って非難を浴びたり、口論の中でパトリック・ヴィエラに対し「黒猿」と発言したことも。後者の件により、黒人レイシストとしてのイメージが定着してしまった(この件では、ミハイロヴィッチの発言のみ強調される傾向が強いが、ヴィエラからも「ジプシー野郎」と差別発言があった)。
  • また近年では自身と同じようにユーゴ連邦出身の両親を持つズラタン・イブラヒモビッチに対しても試合中に問題発言をし、イブラヒモビッチが不快感を示した(その後、ラフプレーで退場し3試合出場停止)ことがある。なお、インテルのアシスタントコーチに就任した2006-2007年シーズンに、皮肉にも彼ら2人がインテルに加入した。
  • インテルにコーチとして入団、活動している最中もその容貌から若手選手達に非常に恐れられた。ただし若い頃はルックスはよく、バルカン半島一の美形として週刊誌などでよく取り上げられていた。
  • 筋金入りのカーマニアとしても有名。

所属クラブ

選手

指導者

脚注

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テンプレート:UCサンプドリアのメンバー

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  1. カターニア、ミハイロビッチ新監督の就任発表(サンスポ)2009年12月9日。同日閲覧。
  2. Presentazione Sinisa Mihajlovicフィオレンティーナ公式テンプレート:It icon,2010-6-3閲覧
  3. Rossi nuovo allenatoreフィオレンティーナ公式テンプレート:It icon,2011-11-8閲覧