サルヴァトーレ・マランツァーノ
サルヴァトーレ・マランツァーノ(Salvatore Maranzano, 1886年7月31日 - 1931年9月10日)は、シチリア島の犯罪組織コーサ・ノストラの幹部であった。彼は6か国語に精通していて、ローマ帝国のジュリアス・シーザーの信奉者である。
概要
彼のブルックリンにある家の自室の壁4面すべてに本棚がそなえてありジュリアス・シーザー関連の本で埋め尽くされていたという。ちなみにそれらの本をラテン原語で読む教養人であり、ジョゼフ・ボナンノをして“禁欲的な知識人であり、生まれながらの戦士である”と言わしめている。アメリカのマフィアの旧時代のボスの中のボス。
シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォで生まれ、初めは神父を目指したが断念してマフィアになることを目指す。1918年にボスのヴィト・カッショ・フェロの命により、アメリカに渡り、ブルックリンに定住してカステラマレ地方出身のシチリア移民のリーダーとなる。そして禁酒法時代にフランク・コステロの手助けにより、密造酒で財をなした。
マランツァーノはイタリアとアメリカを往来し組織の国際化と近代化を進めていたが、同じころニューヨークで勢力を誇っていた同じくシチリア出身の有力ボスジョー・マッセリアと“ボスの中のボス”の地位をめぐって対立するようになった。マッセリアの密造酒を横取りして彼のビジネスを妨害したり、彼の組織の構成員を殺害したりもした。この二人の争いはカステランマレーゼ戦争と呼ばれた(一方、ブロンクスとハーレムを牛耳っていたダッチ・シュルツとも対立関係にあった)。
マッセリアの部下ラッキー・ルチアーノにマッセリアを裏切るように言うが、裏切りに乗らなかったため彼を拷問にかけ、顔に一生残る傷をつけた。このときマランツァーノはルチアーノに対して、マイヤー・ランスキーたちを裏切れとも言っていた。彼はユダヤ人を毛嫌いしており、シチリア人だけの組織を作ろうとしていた(反ユダヤという点ではマッセリアも同様だったが)。
カルテランマレーゼ戦争中の1930年にマッセリア一家の部下を8人ほど殺害して勝算が見え始める。
それでも、最終的にカステランマレーゼ戦争は、1931年4月、マッセリア配下のルチアーノが寝返ったことで、マッセリアがコニーアイランドで殺され収束した。
二週間後、マランツァーノはブロンクスで数百名のギャングを招集して勝利宣言し、統一された新たな組織運営(ニューヨークを五つのファミリーに分割する)と規律を発表して非シチリア人のコーサ・ノストラ加入を禁止した。この時に、各地区のファミリーの縄張りを規定し、全米で24のファミリーが提携された。構成員の多いニューヨークだけは5つの区間に分けられて5大ファミリーと呼ばれる形を作った。全てにおいてイタリア人的で独裁的であったマランツァーノに対し、心の底では世代交代と他国系犯罪組織との友好関係を望んでいたルチアーノは彼の排除を決心した。
その年の5月にシカゴで行なわれたギャングスターの集まりで、アル・カポネのことを「かつてはマッセリア側についていたが、今は親睦を深めたいと願っている」と演説をし、彼をシカゴ・ファミリーのボスと認めた。この時集まった全員が拍手した。
表ではルチアーノとは和解し、シカゴのカポネを認めていたが、裏では、自分がボスの中のボスであるために、危険分子のルチアーノ、カポネ、ヴィト・ジェノヴェーゼ等を標的とする殺害者リストを作成。ヴィンセント・"マッド・ドッグ"・コールに彼らの暗殺を依頼していた。
だが、ルチアーノらを排除しようとした矢先、彼らに先手を打たれて1931年9月10日にマンハッタン区アッパーウエストサイドにある彼の事務所で暗殺された。ルチアーノの意を受け、シュルツの側近ボー・ワインバーグ、サム・レヴィンら四人の殺し屋が警察官に変装してパーク・アヴェニューのThe Helmsley Buildingにあったマランツァーノの事務所を訪れた。マランツァーノのボディガードを武装解除した偽警察官は、マランツァーノを銃撃してナイフでとどめを刺すと逃走した。彼らは逃走の際に事務所に向かっていたコールと鉢合わせしたため、襲撃について知らせたところコールは命からがら逃走した。
その知らせを受け、48時間以内に全米の30~40人の口ひげピートと呼ばれる旧時代のボスが殺されるか、残ったものは強制的に引退させられた。これが「シチリアの晩祷の夜」と言われる事件である。
その後、ルチアーノがコーサ・ノストラを主導し、各地の犯罪組織のネットワーク化、組織運営の合議制化、制裁機関の設置などを実行して組織の近代化を推進した。ニューヨークを五つのファミリー(五大ファミリー)で統治するというマランツァーノのアイディアをルチアーノは受け継ぎ、実行に移すことになる。
マランツァーノは妻のエリザベッタ(1964年死去)と共にニューヨーク・クイーンズ区のセント・ジョーンズ墓地に埋葬されているが、ここには奇しくもルチアーノとジェノヴェーゼの墓もある。