クラ湾夜戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | クラ湾夜戦
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | Helena and St. Louis in action at Kula Gulf, seen from Honolulu
軽巡洋艦ホノルルから撮影された、クラ湾夜戦で砲撃中のヘレナあるいはセントルイス
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年7月5日-6日
場所:ソロモン諸島、クラ湾コロンバンガラ島ニュージョージア島の間)
結果:日本軍の輸送作戦は一応成功も、物資全ての陸揚げは失敗
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 秋山輝男少将 ヴォールデン・L・エインスワース少将
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦10 軽巡洋艦3、駆逐艦4
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦2沈没 軽巡洋艦1沈没

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クラ湾夜戦(クラわんやせん、1943年7月5日 - 6日)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中、ソロモン諸島で生起した日本軍アメリカ軍との間の海戦。アメリカ軍側の呼称はクラ湾海戦 (Battle of Kula Gulf)[1]。なお、ここではクラ湾夜戦の前夜にクラ湾で行われた水上戦闘についても合わせて述べる。

背景

テンプレート:Seealso 6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し占領した。レンドバ島を占領する意味は、ここに重砲を据えてムンダ飛行場へ直接砲撃が可能になるということであり、いわば「不沈砲台」とするものであった[2]。しかし、日本軍はその事を理解しておらず、わずか120名の守備隊はリッチモンド・K・ターナー少将率いる水陸両用部隊に一蹴されたのである[3]。引き続きレンドバ島の重砲の援護下、ニュージョージア島攻略部隊は続々と舟艇機動によってムンダ東方海岸に殺到する。ところが、攻略部隊はジャングル内で日本軍側の縦深防御に手を焼いて進撃は進まなかった[3]ウィリアム・ハルゼー大将の南太平洋部隊(第3艦隊[4])内部では、この戦いをちょうど80年前の南北戦争時のビックスバーグの包囲戦になぞらえ、包囲戦が終結した7月4日には同じように勝利を手にする事ができるだろうと考えていたが、この目論見も外れる形となった[5]

一方の日本軍側は、6月29日深夜に呂109がレンドバ島を目指す輸送船団を発見し、これを受けて第八艦隊鮫島具重中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入を命じる[6][7]。秋山少将は本来の戦隊旗艦である軽巡洋艦川内[8]に代え、新鋭の駆逐艦新月」に将旗を翻し、「望月」、「皐月」、「夕凪」を率いてレンドバ島沖に向かう[8]。これとは別に「天霧」、「初雪」、「長月」、「三日月」および「水無月」からなる一隊がレンドバ島近海に先行して輸送船団を捜し求めていた[8]。しかし、スコールに見舞われて敵を発見することが出来ず、「新月」はブインに、その他の駆逐艦はブカ島にそれぞれ帰投した[8]。第三水雷戦隊は翌7月2日にも再度レンドバ島突入を行う。この時は軽巡洋艦「夕張」、「夕凪」、「三日月」からなる陽動隊を別に編成し、旗艦「新月」以下「天霧」、「初雪」、「長月」、「皐月」、「望月」の6隻は7月2日16時にブインを出撃して、日付が7月3日になろうとする頃にレンドバ島沖に到着[9]。この時もまた敵艦艇を発見することはできず、レンドバ島に対して艦砲射撃を行い引き揚げた[9]

レンドバ島占領は、第八方面軍今村均中将)にコロンバンガラ島の防衛強化の重要性を再認識させた[10]。喉元に刃物を突きつけられた状態となって輸送が困難になることが予想されたため、防衛強化のために速射砲と陸兵1,300名、大発15隻分に相当する物件をコロンバンガラ島に輸送する事とした[10][11]。輸送は二度の鼠輸送によって行われることとし、7月4日と7月5日に駆逐艦4隻ずつを送り込むことになった[12]。一方、アメリカ軍側もムンダ攻撃の支援のため、ニュージョージア島のクラ湾に面した地域に対しても上陸作戦を行う事となり、アメリカ第37歩兵師団三個大隊を乗せた高速輸送艦を主体とする輸送船団と、ヴォールデン・L・エインスワース少将率いる火力支援担当の第36.1任務群を送り込む事となった[13]

7月4日深夜の戦闘

参加艦艇

日本海軍

  • 第三水雷戦隊[12]
駆逐艦:「長月」、「皐月」、「新月」、「夕凪」

アメリカ海軍

輸送船団は省略

  • 第36.1任務群[13]
軽巡洋艦:「ホノルル」(任務群旗艦)、「ヘレナ」、「セントルイス
駆逐艦:「ニコラス」、「ストロング」、「オバノン」、「シャヴァリア

戦闘経過

秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は出撃せずブインにて作戦を指揮[12]。第二十二駆逐隊司令金岡国三大佐に率いられた駆逐艦4隻は、7月4日16時40分にブインを出撃。チョイスル島南岸沿いに南に下り、ニュージョージア海峡を縦断してコロンバンガラ島東岸に取りつく[12]。クラ湾に入りつつあった22時15分、左舷前方10キロ先に艦砲射撃中の敵艦隊を発見[12]。この敵艦隊、つまり第36.1任務群は駆逐艦を2隻ずつ前後に配した陣形を取り、ニュージョージア島バイロコの呉第六特別陸戦隊に対して砲撃を行っていた[14]。その最中、輸送船団の護衛にあたっていた駆逐艦「ラルフ・タルボット」 (USS Ralph Talbot, DD-390) のレーダーが北方に目標を探知[14]。しかし、第36.1任務群はUターンをして右砲戦で艦砲射撃を続けた。第36.1任務群を魚雷の射程圏内に入れた金岡大佐は海戦を行う事を決心し、22時25分に魚雷発射を命じる[11]。「長月」が6本、「新月」と「夕凪」が4本ずつ発射し[11]、そのままクラ湾から去っていった。その後、機を見て再度の攻撃と揚陸を試みるも、最終的には物資揚陸を断念して7月5日6時にブインに帰投した[12]

エインスワース少将は「ラルフ・タルボット」に、探知した目標について報告させようとしたが[15]、間もなく「ストロング」の右舷に魚雷が命中する[14][1]。バイロコの呉第六特別陸戦隊は戦艦伊勢」、「日向」から下ろした14センチ砲を有していたが[16]、その14センチ砲も第36.1任務群に対して砲撃を行い、「ストロング」に三発の命中弾を与えた[14]。「ストロング」は大破し、「シャヴァリア」が艦首を「ストロング」に接触させつつも[17]乗員240名を救助した後、搭載していた爆雷が爆発して沈没した[14]。エインスワース少将はこの攻撃を潜水艦によるものと信じていた[1]。第36.1任務群は救助作業に一区切りをつけると、急遽ツラギ島に退却した[1]

戦闘の後

第三水雷戦隊は駆逐艦1隻を撃沈する戦果を挙げたものの、本来の目的である輸送任務は果たせなかった。そこで、7月5日に予定されていた輸送作戦では第二水雷戦隊伊崎俊二少将)からの応援艦を加えて部隊規模を大きくし、増援部隊全力を挙げて決行される事となった[11][18]。一方のアメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったものの上陸作戦には成功し、コロンバンガラ島に対する圧力をいっそう強める事となった。

参加艦艇

日本海軍

  • 第三水雷戦隊[19]
支援隊:「新月」(旗艦)、「涼風」、「谷風
第一次輸送隊:「望月」、「三日月」、「浜風」(「夕凪」)
第二次輸送隊:「天霧」、「初雪」、「長月」、「皐月」

輸送隊は陸兵2,400名、物件約180トンを搭載[20]

アメリカ海軍

  • 第36.1任務群[21]
軽巡洋艦:「ホノルル」(任務群旗艦)、「ヘレナ」、「セントルイス」
駆逐艦:「ニコラス」、「オバノン」、「ジェンキンス」、「ラドフォード

戦闘経過

ファイル:RadfordKulaGulf.jpg
ヘレナの生存者を乗せた駆逐艦ラドフォード
ファイル:Japanese destroyer Nagatsuki abandoned 1944.jpg
放棄された長月(1944年5月8日撮影)

第三水雷戦隊は当初、「夕張」を旗艦として出撃する予定であったが、7月5日にショートランド泊地に入りつつあった時に触雷し、作戦から除外されて「新月」を旗艦とした[22]。また、第一次輸送隊に名を連ねていた「夕凪」は出撃しなかった[23]。17時35分、ブインを出撃[19]。前夜と同様にチョイスル島沿いに南に下り、22時23分に第一次輸送隊を分離させてコロンバンガラ島東岸に先行させる[19]。一方の第36.1任務群はツラギに到着し、給油作業を行っていた[21]。そこに新手の「東京急行」出発の報がもたらされる。ハルゼー大将から情報を受け取ったエインスワース少将は、急遽コロンバンガラ島近海に引き返すこととした[1]。ただし、「シャヴァリア」は艦首損傷と「ストロング」乗員の上陸のため任務群から外され、代わりに「ジェンキンス」と「ラドフォード」を任務群に加えた[17]。第36.1任務群は視界の悪い海域を29ノットの高速で北上し、クラ湾に差し掛かる頃に25ノットに速力を落として会敵に備えた[17]。エインスワース少将は当夜の戦法について、まず軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した[24]

23時3分、「新月」は左20度5キロ先に敵艦隊を発見する[19]。23時18分にUターンののち[19]、23時43分に第二次輸送隊を分離[19]。その直前の23時36分、「ホノルル」のレーダーが左前方に第三水雷戦隊を探知[17]。23時48分、「新月」が同航する巡洋艦3隻、駆逐艦2隻を発見するに及び[20]、23時52分に全軍集結を命じる[19]。23時54分、エインスワース少将は指揮下全艦艇に攻撃を命じる[17]。当面の目標を支援隊とし、一斉射撃を行った[20]。23時56分、「新月」は第36.1任務群からの砲撃を一身に浴び、日付が変わった0時6分には舵が故障した上、火災が発生[20]。そのまま行方不明となった。第36.1任務群が砲撃を加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将は筋書き通りに事が進んでいると判断し[25]、次の行動を移ることとした。しかし、「新月」に砲撃が集中した結果、続く「涼風」と「谷風」にはこの時には砲弾が降り注がず、23時57分に魚雷をそれぞれ8本ずつ発射して再装填のため一旦戦場を離脱した[26][27]。0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲い[26]、「ヘレナ」に魚雷3本が命中する。1本は艦首部に命中して艦首をもぎ取り[27]、2本は船体中央部のほぼ同一箇所に命中[28]。これにより「ヘレナ」の船体はV字型に裂け、そのまま沈没していった[29]。後続の「セントルイス」は、「ヘレナ」への追突を防ぐため右側に針路を取って戦場から一時離脱した[30]。「オバノン」は第二次輸送隊と思しき目標に向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった[31]

再装填のため一旦戦場を離脱した「涼風」と「谷風」であったが、「涼風」は火災事故を起こし[32]、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった[33]。「谷風」も魚雷次発装填装置の故障のため、戦場に戻るのに手間取り[34]、艦首に不発ながら命中弾を受けて損傷した[32][35][33]。2時ごろには戦場に引き返したものの、「新月」も敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした[20]。また、全軍集結で集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊の「望月」は触礁事故と大発の曳航索を推進器に絡ませたことにより遅れをとる[36]。それでも、揚陸作業を終えて西方に向かった[20]。第二次輸送隊は「天霧」が魚雷攻撃を、「初雪」が砲撃をそれぞれ行う[31]。反撃により「初雪」が二発の不発弾を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した[20]。「長月」と「皐月」も突撃した「天霧」および「初雪」に続くも、敵情が分からなかったので先んじて揚陸作業に戻る[36][20]。しかし、0時49分に「長月」がコロンバンガラ島ベネット入江に座礁した[36]。揚陸作業と同時に「皐月」による引き降ろし作業が行われたが成功せず、4時23分には引き降ろし作業が打ち切られた[36]。「天霧」および「初雪」も3時前には揚陸作業を済ませるが[20]、「ヘレナ」の生存者を救助中の「ニコラス」と「ラドフォード」からの砲撃を受けたため反撃を行う[19][31]。「天霧」は魚雷5本を発射し、1隻に命中と判断されたが[19][37]、実際には「ラドフォード」の艦尾をかすめ去っただけだった[38]。西航中の「望月」もまた「ニコラス」と「ラドフォード」からの砲撃を受けるが、煙幕を張って退却していった[38]。「天霧」と「初雪」はベララベラ島南岸沿いを通り9時に[19]、「谷風」、「浜風」、「三日月」は7時30分[19]、「涼風」と「望月」は9時15分[36]、そして「皐月」が10時に[36]それぞれブインに帰投した[19][36]。ベネット入江で座礁中の「長月」は7月6日の朝、SBD「ドーントレス」TBF「アベンジャー」B-25 の爆撃を受けて放棄された[38]。「新月」と「長月」の生存者はコロンバンガラ島に上陸し、同地の横須賀第七特別陸戦隊に編入された[38]

第36.1任務群は、前述のように「ヘレナ」の739名の生存者を救助するために「ニコラス」と「ラドフォード」を戦場に残し、また退去の際には3隻の救命ボートを海上に投下してツラギ島に退却していった。「ニコラス」と「ラドフォード」は「天霧」、「初雪」および「望月」と交戦しつつも救助作業を行ったものの、全ての生存者を救助する事はできなかった。残りは救命ボートに分乗して漂流し、一部はベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された[30]テンプレート:Seealso

損害と海戦の後

  • 日本海軍の損害[36]
沈没:「新月」、「長月」
中破:「天霧」、「初雪」、「谷風」
小破:「涼風」、「望月」
秋山少将以下、第三水雷戦隊司令部全滅
  • アメリカ海軍の損害
沈没:「ヘレナ」

本来の目的であるコロンバンガラ島への輸送は、半数前後に相当する陸兵1,600名と物資90トンを揚陸するも、海戦の影響で全ての陸揚げには成功しなかった[37]。ムンダ方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、ニュージョージア島へ一部の兵力を移すこととなった[39]。この事により、その分だけコロンバンガラ島の兵力に穴が開くこととなるため、後詰め兵力を送り込む必要性が出てきた。そこで、7月9日にコロンバンガラ島への緊急輸送が行われ[40]、7月12日にも輸送作戦が行われるが、同日夜にクラ湾夜戦に似たような経過でコロンバンガラ島沖海戦が発生した。また、司令部が全滅した第三水雷戦隊の後任司令官として7月7日付で伊集院松治大佐が発令され、7月10日に着任した[37]

エインスワース少将はハルゼー大将へ「7隻の日本軍艦を仕留めた」と報告し[1]、ハルゼー大将はこれに対し賞賛の返答を行った[41]。「ヘレナ」の生存者の一部は後に、12月20日に就役したクリーブランド級軽巡洋艦ヒューストン」 (USS Houston, CL-81) の乗組員の中核を成した[42]。また、戦死者や負傷者に火傷の者が多かったので、以後暑い気候の海域でも、基本的に肌の露出が少ない服装を着用することが義務付けられた[30]

脚注

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参考文献

『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105800(『第三水雷戦隊戦時日誌』)
『昭和十八年七月七日 駆逐艦谷風戦闘詳報第一号 昭和十八年七月五日昭和十八年七月六日「クラ」湾沖夜戦』駆逐艦谷風、C08030753700(『駆逐艦谷風戦闘詳報』)
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

関連項目

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  4. 元の位置に戻る ポッター, 368ページ
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  6. 元の位置に戻る 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.11
  7. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』316ページ
  8. 以下の位置に戻る: 8.0 8.1 8.2 8.3 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.5
  9. 以下の位置に戻る: 9.0 9.1 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.12
  10. 以下の位置に戻る: 10.0 10.1 木俣『日本水雷戦史』317ページ
  11. 以下の位置に戻る: 11.0 11.1 11.2 11.3 『戦史叢書96』227ページ
  12. 以下の位置に戻る: 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.13
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  14. 以下の位置に戻る: 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 木俣『日本水雷戦史』319ページ 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "d"が異なる内容で複数回定義されています
  15. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』319、320ページ
  16. 元の位置に戻る 木俣『日本戦艦戦史』268、271ページ
  17. 以下の位置に戻る: 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 木俣『日本水雷戦史』325ページ
  18. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』322ページ
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  20. 以下の位置に戻る: 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 20.6 20.7 20.8 『戦史叢書96』228ページ
  21. 以下の位置に戻る: 21.0 21.1 木俣『日本水雷戦史』324ページ
  22. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』322、323ページ
  23. 元の位置に戻る 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.28
  24. 元の位置に戻る 佐藤, 80ページ
  25. 元の位置に戻る 佐藤, 81ページ
  26. 以下の位置に戻る: 26.0 26.1 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.6
  27. 以下の位置に戻る: 27.0 27.1 佐藤, 82ページ
  28. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』326、327ページ
  29. 元の位置に戻る 木俣『日本水雷戦史』326ページ
  30. 以下の位置に戻る: 30.0 30.1 30.2 木俣『日本水雷戦史』327ページ
  31. 以下の位置に戻る: 31.0 31.1 31.2 木俣『日本水雷戦史』329ページ
  32. 以下の位置に戻る: 32.0 32.1 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.7
  33. 以下の位置に戻る: 33.0 33.1 木俣『日本水雷戦史』328ページ
  34. 元の位置に戻る 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.11,19,20,21,22
  35. 元の位置に戻る 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.12,14
  36. 以下の位置に戻る: 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 36.6 36.7 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.15
  37. 以下の位置に戻る: 37.0 37.1 37.2 『戦史叢書96』230ページ
  38. 以下の位置に戻る: 38.0 38.1 38.2 38.3 木俣『日本水雷戦史』330ページ
  39. 元の位置に戻る 『戦史叢書96』236ページ
  40. 元の位置に戻る 『戦史叢書96』236、237、245ページ
  41. 元の位置に戻る ポッター, 370ページ
  42. 元の位置に戻る 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』157ページ