カザン・ハン国
テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 カザン・ハン国 (カザン・ハンこく、テンプレート:Lang-tt、テンプレート:Lang-ru (Kazanskoe khanstvo)) は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。首都はカザン。
歴史
ヴォルガ川下流のサライ周辺において行われたハン位を巡るジョチ・ウルス内の抗争に敗れた王族テンプレート:仮リンク(大ムハンマド)が、1437年あるいは1438年にジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガール王国の故地に退き、この地でハンを称したことにより成立した。 その領域は、現在のタタールスタン共和国、マリ・エル共和国、チュヴァシ共和国、モルドヴァ共和国、ウドムルト共和国の一部、バシコルトスタン共和国の一部を含み、住民はタタールと呼ばれるモンゴル系・テュルク系の人々と、フィン・ウゴル系の諸民族からなっていた。
東西交易の中継地として繁栄したが、15世紀後半以降はハン位を巡る争いから常に政治的に不安定で、新興のモスクワ大公国とクリミア・ハン国の影響を受けた親モスクワ派と親クリミア派の対立が続いた。さらに16世紀前半にムハンマド・アミーンが没してウルグ・ムハンマド直系の家系が断絶すると、親モスクワ派の擁立するカシモフ出身のハンと親クリミア派の擁立するクリミア出身のハンが頻繁に交代した結果、115年のあいだにハンが19度も交代する混乱が続いた。
カザン滅亡
1545年から、モスクワ大公国のイヴァン4世はヴォルガ中流域に勢力を広げるためカザン・ハン国への干渉を強め、1552年にカザン市はついに陥落、カザン・ハン国はロシアに併合された(テンプレート:仮リンク)。カザン・ハン国の遺民は1556年まで各地で戦いを続けたが(テンプレート:仮リンク)、鎮圧された後のタタール人は強制移住やキリスト教への改宗を強いられるなど抑圧を受けた。
歴代のハン
- ウルグ・ムハンマド(1437年 - 1445年)
- マフムデク(マフムード、1445年 - 1462年(1466年?)) - ウルグ・ムハンマドの子。
- ハリール(1462年(1466年?) - 1467年) - マフムデクの子。
- イブラーヒーム(1467年 - 1479年) - ハリールの兄弟。
- イルハム(アリーあるいはアドハムとも、1479年 - 1484年) - ハリールあるいはイブラーヒームの子。
- ムハンマド・アミーン(1484年 - 1485年) - イルハムの兄弟。
- イルハム(2度目、1485年 - 1487年)
- ムハンマド・アミーン(2度目、1487年 - 1495年)
- マムク(1495年 - 1496年) - シビル・ハン国のマフムダクあるいはイバクの子。
- アブドゥッラティーフ(1496年 - 1502年) - イルハム、ムハンマド・アミーンの兄弟。
- ムハンマド・アミーン(3度目、1502年 - 1518年)
- シャー・アリー(1519年 - 1521年) - 大オルダのアフマド・ハンの後裔でカシモフ・ハン国のシャイフ・アウリヤールの子。
- サーヒブ・ギライ(1521年 - 1524年) - クリミア・ハン国のメングリ・ギライ1世の子。
- サファー・ギライ(1524年 - 1531年) - サーヒブ・ギライの兄弟フェトフ・ギライの子。
- ジャン・アリー(1532年 - 1535年) - シャー・アリーの兄弟。
- サファー・ギライ(2度目、1535年 - 1546年)
- シャー・アリー(2度目、1546年)
- サファー・ギライ(2度目、1546年 - 1549年)
- ウテミシュ・ギライ(1549年 - 1551年) - サファー・ギライの子。
- ヤデガル・ムハンマド(1551年 - 1552年) - 大オルダのアフマド・ハンの後裔でアストラハン・ハン国のカースィムの子。