ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)

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テンプレート:政治家 第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュテンプレート:Lang-en-short, 1720年5月8日 - 1764年10月2日)は、イギリスホイッグ政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官

1756年11月16日から1757年6月25日の間首相をつとめたが、実質的指導者はウィリアム・ピット(大ピット、後の初代テンプレート:仮リンク)であった。大ピットは財政面の知識にとぼしく、自らは南部担当国務大臣テンプレート:Interlang; 南部国務卿)となり、第一大蔵卿(首相)をデヴォンシャーに任せて七年戦争の指揮にあたった。

経歴

第3代デヴォンシャー公爵テンプレート:仮リンクの息子[1][2][3]1741年よりダービーシャー州選挙区選出の庶民院議員[4][1]1751年に「ハードウィックのキャヴェンディッシュ男爵」(Baron Cavendish of Hardwick)として貴族院に招集され(テンプレート:Interlang)、貴族院議員となる[1][2][3]。同年主馬頭テンプレート:Interlang)に任じられたほか、枢密顧問官に列せられる[2][3]1754年から1764年までアイルランド大蔵卿テンプレート:訳語疑問点テンプレート:Interlang)、1755年から1756年までアイルランド総督テンプレート:Interlang; アイルランド統監)を務める[1]。 1755年、父の死により第4代デヴォンシャー公爵となる[1][2][3]

1756年七年戦争が勃発するとイングランドでは指導者として大ピットを期待する声が高まるが、本人が初代テンプレート:仮リンクニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズの政権へ加わるのを拒否したため、家柄と庶民院議員の経験やアイルランドでの人気によりデヴォンシャーが第一大蔵卿首相)に推された[2]。首相就任と同時にガーター勲章を授けられた[1][2][3]。 デヴォンシャーは特に政治能力を発揮することもなく、大ピットがニューカッスルとの和解の必要を悟ったこともあり、翌1757年に首相を退任[2]宮内長官テンプレート:Interlang; 王室侍従長)となる[1][2][3]

その後健康を害し、温泉療養のために訪れていたオーストリア南ネーデルラントスパで客死した[2]

家族

後に第6代テンプレート:仮リンクとなるレディ・テンプレート:仮リンク1748年に結婚し[1][2][3]、三男一女をもうけた[1]。彼女は建築・美術収集家として知られた第3代テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの一人娘で、この結婚によりテンプレート:仮リンクを初めとする財産がデヴォンシャー公爵家へ渡った[2]

出典

テンプレート:脚注ヘルプ

外部リンク

テンプレート:Sister

先代:
第2代リッチモンド公爵
主馬頭
1750年 - 1755年
次代:
初代ドーセット公爵
先代:
第3代バーリントン伯爵
アイルランド大蔵卿
1754年 - 1764年
次代:
第5代デヴォンシャー公爵
先代:
初代ドーセット公爵
アイルランド総督
1755年 - 1757年
次代:
第4代ベッドフォード公爵
先代:
初代ニューカッスル公爵
イギリスの首相
第5代:1756年 - 1757年
次代:
初代ニューカッスル公爵
先代:
初代ニューカッスル公爵
貴族院院内総務
1756年 - 1757年
次代:
初代ニューカッスル公爵
先代:
第2代グラフトン公爵
宮内長官
1757年 - 1762年
次代:
第4代マールバラ公爵
先代:
ウィリアム・キャヴェンディッシュ
デヴォンシャー公爵
第4代:1755年 - 1764年
次代:
ウィリアム・キャヴェンディッシュ
テンプレート:イギリスの首相
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 テンプレート:Cite web
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 テンプレート:DNB
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 ファイル:PD-icon.svg テンプレート:Cite encyclopedia
  4. テンプレート:Cite web