アレクサンドル・カレリン

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オリンピックにおいてグレコローマンレスリング130kg級で1988年1992年1996年と三大会連続で金メダルを獲得。その前人未到とも称された大記録と圧倒的な強さから、海外マスメディアでは"The Experiment"、日本では"霊長類最強の男"の異名で知られる。

ロシア連邦英雄を授与されている。

来歴

13歳の時にレスリングを始め、積雪30cmの中でのランニングや、ボートを3時間不休で漕ぎ続けるなどの過酷なトレーニングで身体を徹底的に鍛え上げた。その結果カレリンは超人的とさえいえるパワーを身に付け、全盛期の背筋力は400kg以上に達したという。彼の怪力に関するエピソードとして、引越しの際にアパートの1階から8階(一説では15階とも)まで、たんすや冷蔵庫(重さ120kg)を一人で担いで運んだという逸話がある。

1987年から2000年まで国際大会で13年間無敗を誇り、大会76連勝の記録を持つ。その間に世界選手権9連覇や欧州選手権10連覇を記録し、公式試合での連勝記録は300までに及んだ。

1999年2月21日には、横浜アリーナで開催されたリングスにおいて、前田日明の引退試合の相手を務めた。この試合はカレリン唯一の他流試合(グレコローマン以外の試合)でもある。

2000年9月26日シドニーオリンピック決勝のオリンピック4連覇を賭けた試合で、ルーロン・ガードナーに敗れた。

その外見に反して言動は紳士的かつ知的であり、レスリング関係者のみならず、広くロシア国民の尊敬の対象となっている。1999年12月からはロシアの国会議員を一期務めた。

得意技

カレリンの超人的な強さの象徴として、カレリンズ・リフトという技がある。これはパーテールポジションから相手の胴体をクラッチし、後方に反り投げるという俵返し(サイド・スープレックス)に相当するもので、アマチュアレスリングではポピュラーな投げ技のひとつである。しかしそれは軽・中量級における話であり、カレリンが出場していた130kg級では前代未聞の大技だった。カレリンがこの技を使うまでは、130kg級において相手を俵返しで投げるという概念自体が存在しなかったとされている。受ける側は当然ながら頸椎に多大な荷重がかかるため、カレリンにパーテールポジションを奪われた相手がこの技を恐れて、そのままフォール負けを選ぶという場面がしばしば見受けられた。

前田日明はカレリンとの対戦前「あれはレスリングのルールだから通用する技。自分は絶対に喰らわない」と自信の程を語っていたが、実際の試合では2回カレリンズ・リフトを受けてしまった。前田が引退後『リングの魂』で語ったところによれば、カレリンのクラッチはあまりにも人間離れした強固極まるもので(前田曰く「えっ、こんなクラッチあるの?と思った」)、全く抵抗することが出来なかったという。

その他

  • 身長191cm、体重130kgの巨漢だったが、非常にバランスが取れた体格を持っていた。これについては前田日明が『リングの魂』内で詳しく語っており、カレリンの体は全身が柔軟かつ重厚な筋肉の塊で「競走馬に触ったことがあるんですけど、同じ感じの筋肉」だったという。また、前田は「筋肉のつき方が軽量級の選手と同じなんですよ。ああいう体は持って生まれたものじゃないと、いくら鍛えてもそうならないでしょうね」とも述べている。
  • 1989年、アントニオ猪木が窓口となって新日本プロレスショータ・チョチョシビリサルマン・ハシミコフらを、協栄ボクシングジム勇利アルバチャコフオルズベック・ナザロフらを招聘していった流れの中で、カレリンも新日本プロレスと契約した、とプロレス雑誌に報道された事がある。当時の報道では、プロ転向という形ではなく、新日にレスリング部門を作り、そこにカレリンが所属する形とされたが、その後、何のアクションもなかった。カレリンが日本ではそれほどビッグネームではなく反響が少なかった事、1989年末には新日内でソ連軍団の価値が下がった事が大きかったが、実際はカレリンのリップサービスを、詳細も詰めずに猪木が過大に発表した事による。
  • 前田との試合の際に使用した入場曲はオジー・オズボーンの「Perry Mason」。
  • プロレスラー・格闘家のアレクサンダー大塚は、尊敬するカレリンの名を自らのリングネームに使用している。
  • 出生時の体重が6.8キロもあった。

関連項目

脚注

  1. テンプレート:Lang-*-Latn

外部リンク