ハトラ
テンプレート:Infobox ハトラはイラク共和国北部のモースル州の南西約100km、サルサル・ワジ川のほとりの砂漠地帯に残る歴史的な都市遺跡。1985年に世界遺産に登録された。別名を「神の家」という。パルティア帝国の重要な要塞都市で、ローマ帝国の度重なる攻撃に曝された。
歴史
紀元前3世紀ごろ、セレウコス朝の支配下にあったカスピ海の東部平原で騎馬遊牧民族のパルティア人が独立し、アルサケス朝パルティアという王国を築いた。砂漠の隊商都市を次々と攻略し、領土を拡張していったパルティア人は、紀元前2世紀ごろにはメソポタミアに進出し、チグリス川のほとりにあったセレウコス朝の都市セレウキアの対岸にクテシフォンという都市を建設した。これによりセレウコス朝の領土の大部分がパルティア王国の実質的な支配下に入り、飛躍的な拡大を遂げたミトラダテス1世(在位前171‐前138)は自ら「大王(バシレオス・メガス)」と称した。
パルティア人はいくつもの隊商都市を掌握し、鉄製の鋏によって柔らかい羊毛とそれによる上質の毛織物の生産技術を得て、裕福になっていき、家族と財産と家畜を防衛するための武装化が進んだ。もともと騎馬遊牧民族である彼らは騎馬の扱いに長け、弓を得意とした。長距離戦闘には弓を使う軽装騎射騎兵を、近接戦闘には長槍と盾を使う重装突撃騎兵を用いる戦法で毛織物の販路を確保して、交易によってますます繁栄し、ミトラダテス2世(在位前123‐前88)の治世に最盛期を迎える。
ミトラダテス2世の死後、王位継承をめぐって国内で紛争が起きると、豊かなメソポタミアの地を狙うローマ帝国の侵攻が始まる。アナトリア、シリア、エジプトを次々と屈服させて膨張を続けたローマ帝国は、パルティア王国にとって最大の脅威であった。ローマとパルティアの戦いは100年以上も続いた後、和議が結ばれ、小康状態を保つ。
軍事都市
ハトラはもともとパルティアに隷属して自治を許されていたセム語系アラブ人の都市であった。紀元前1世紀ごろから神殿を備えた都市が形成され、パルティア王国の隊商都市として栄えたハトラだったが、北イラクに位置し、砂漠と草原に囲まれているという軍事的利点から、パルティア王国の軍事拠点へと変貌した。 軍事要塞としてのハトラは、紀元116年から198年の間、再び始まったローマ軍の攻撃によく耐えた。
「117年、ハトラの近くまでやってきたトラヤヌス帝は、パルティア勢力の拠点と思われたこの砂漠都市を包囲し始めたが、数日後、やむなく断念した。周辺の人々から人と駄獣のための補給を何も得られず、水も乏しく質が悪かったからである。(中略)ローマ人は、食べ物や飲み物に狂ったように群がるしつこい蝿の大群にも悩まされた。」(ニールソン・C・デベボイス著、小玉新次郎・伊吹寛子訳(『パルティアの歴史』p.185より引用)
砂漠と草原に囲まれているという地理的利点と、いくつもの塔によって強化された高く厚い二重構造の円形の城壁及びその中に収容した屈強な兵によって、強固な軍事的優勢を確保したのである。
116年のトラヤヌス帝による攻撃、その80年後のローマ軍の遠征、そして216年のカラカラ帝の軍隊による襲撃をも退けたハトラだったが、パルティア王国の衰退に伴いその力を失い、ついにサーサーン朝ペルシアによって陥落させられる。
建造物
二重構造の城壁の外側の壁は、東西1.9km、南北2kmにわたる直径2kmのほぼ円形で、粘土質のブロックが組み上げられて構成されている。内側の壁は2mの高さの石の壁で、内壁と外壁の間には300mから500m幅の深い濠がある。壁は163もの防衛塔を持っており、その間隔は決して35m以上開かないようになっている。4つの門は防御が容易く、北門の保存状態がもっともよい。
街の中心部には長辺440メートル、短辺320メートルの壁で囲まれた神殿地域(テメノス)がある。この地域は広大な前庭部と神殿などが建つ聖域部に、7つの門をもつ隔壁によって分けられていた。聖域における最大の建造物であるシャマシュ神殿は、二つの大イーワーンを擁しており、このイーワーンは最高神官を兼ねたハトラ王の住居であったと推測されている。シャマシュ神殿の本殿は前殿としての役割も担う大イーワーンの背後にあり、太陽神シャマシュを祀っている。この様式は後のペルシア及びイスラーム建築における主要な要素となった。
シャマシュ神殿のすぐそばには、その外観がパルテノン神殿を彷彿とさせる、ギリシア神殿がある。ギリシア風なのは外観ばかりでなく、内装もまた然りであって、イオニア式の柱頭や、ブドウやアカンサスの葉などの装飾がみられる。このようにパルティアの建造物には、オリエント様式とギリシア・ローマ様式の融合が現れており、後のサーサーン朝ペルシアに受け継がれることとなる。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core