中富町
テンプレート:Infobox 中富町(なかとみちょう)は、山梨県南西部南巨摩郡に位置した町である。
歴史
古代の律令制下では巨麻郡川合郷に属していたと考えられている。
中世には甲斐源氏が国中地方の各地に土着して勢力を持つが、八日市場には源義光(新羅三郎)を開祖する大聖寺がある。町域を領する甲斐源氏の一族は確認されていないが、西島は建徳2年(1371年)10月15日の渋谷重門譲書(「入来院文書」)に拠れば薩摩国入来院を領して入来院氏と祖となる重門が領しており、以来15世紀末まで渋谷氏領であった。町域を含む河内地方は戦国時代に武田氏親族衆の穴山氏が領するが、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡し穴山氏も没落すると武田遺領を巡り天正壬午の乱が起こり、駿河から入甲して相模国の後北条氏と争った徳川家康が家臣の岡部正綱に命じて寺沢の地に菅沼城を築城させたという。甲斐一国が家康の支配下に治まると河内地方は菅沼城を拠点に支配されるが、家康の関東移封により城は破却された。
近世には20か村があり、18か村が巨摩郡西河内領に属し、下田原村と宮木村は八代郡東河内領に属した。はじめ全村が天領で、宝永元年(1704年)には下田原と宮木を除く18か村が甲府藩領となる。享保9年(1724年)には再び全村が天領となり、上飯田代官支配となる。上飯田代官所の廃止後は甲府代官の預支配を経て、寛政6年(1794年)には市川代官支配となる。
山間部で耕地面積がわずかであるため、林業や焼畑、狩猟、製紙原料となる三椏の栽培など山の資源を利用した生業が成立し、西嶋は紙漉職人が多く、和紙を生産している。また、富士川沿いには青柳河岸(増穂町)に属した切石河岸・八日市場河岸や黒沢河岸(鰍沢町)に属した下田原河岸などの富士川舟運に関わる河岸があり、渡船に携わるものもいた。富士川沿いには甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が通り、沿道は宿場や町場となった。
沿革
- 1954年(昭和29年)8月17日 - 西島村・大須成村・静川村・曙村が合併して発足。
- 1955年(昭和30年)8月1日 - 原村を編入。
- 1958年(昭和33年)4月1日 - 西八代郡下部町の一部(大字宮木・下田原)を編入。
- 2004年(平成16年)9月13日 - 身延町・西八代郡下部町と合併し、改めて身延町が発足。同日中富町廃止。
経済
特産品
- 西嶋和紙
- 南天ワイン
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- なかとみ和紙の里
- 句碑の里
出身有名人
- 望月幸明 山梨県知事