久我家
テンプレート:日本の氏族 久我(こが)家は、日本の氏族。村上源氏(中院流)の総本家にあたる。貴族・公家・華族の家柄。公家としては清華家、華族としては侯爵家の家格を有した。源氏堂上十家のひとつ。
久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は35名。うち太政大臣まで昇った者7名、右大臣まで昇った者4名、内大臣まで昇った者6名である。
歴史
村上天皇の皇子具平親王の子師房が寛仁4年(1020年)に源朝臣の姓を賜わり、その孫にあたる太政大臣源雅実が祖。久我という家名は、源師房の代より伝えられ、山城国乙訓郡久我(こが)(現在の京都市伏見区久我)に構えた久我水閣が由来とする。ただし、その子源雅定は「中院」、その次の源雅通は「久我」、その次の源通親は「土御門」と呼称されており(『尊卑分脈』)、厳密な意味での「久我家」を通親の子久我通光を祖とする系統に限定させ、それ以前はあくまでも「村上源氏中院流」として捉える見方の方が正確とされている[1]。
鎌倉時代前期の源通親は内大臣となり、権勢を振るい「源博陸(はくろく/はくりく=関白の異名)」と称された。狭義における久我家の祖である通光は通親の三男であるが、一男源通宗(母太政大臣藤原忠雅公女)が参議左中将・31歳で早世、二男源通具が平通盛の外孫であり、後鳥羽天皇御乳母で土御門天皇外祖母である藤原範子を母とする通光が嫡男としての扱いを受けた。
また、雅定以来の中院流には源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格を有していたが、同流のうちの一門上首が任じられるのを原則とされたため、久我家以外の中院家諸家との間の持ち回りの任命となり、久我家の優位性を確立出来なかった。更に通光は承久の乱に連座して内大臣を更迭され、後に太政大臣に任ぜられたものの晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから、通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生し、不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。通忠後妻に庇護される形となった通忠先妻の子久我通基は正応元年9月12日、初めて宣旨をもって源氏長者に補任されて久我家の源氏長者の権威づけを図った。更に南北朝時代の久我長通は当時の公家社会における一門上首から家嫡系統を重視する風潮への変化に合わせて久我家を中院流の嫡流として確実にすることに力を注いだ。すなわち、西園寺公宗の処刑による混乱に乗じて西園寺家に渡った旧久我家領を取り戻し、他の中院流公家の源氏長者補任の阻止を図った。その工作が功を奏し、長通の没後に源氏長者になった嫡男久我通相以後源氏長者は久我家の独占となった。
だが、室町時代に入ると足利義満が源氏長者となり、足利家が源氏長者となる慣例が成立する。ただし、足利将軍家そのものが後継者争いなどによって不安定な状況が続いたため、実際には村上源氏公家の久我家と清和源氏武家の足利家が交互に源氏長者に就任する様相を呈し、戦国時代に入ると再び久我家が源氏長者を独占して久我通堅まで続いた。また、中世以後当道座の本所としても知られた。だが、康正2年(1456年)に放火によって久我家の家記などの文書を失い、更に戦国時代以後に各地の荘園を失ったことで衰退し、豊臣政権期末期の慶長4年(1599年)に久我敦通と長橋局のスキャンダルで後陽成天皇の勅勘を受けて家領の多くを奪われたことから、江戸時代に入ると源氏長者は徳川家に奪われてその独占となり、久我家は摂関家に次ぐ清華家の家格を有したものの、実際には不振が続き、江戸時代の家禄とされる700石が確定したのは敦通の孫である久我広通の時代と言われている。以後は清華家として再び大臣を輩出するようになった。幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったともいわれる[2]が、真偽は不明。 明治維新後の1884年(明治17年)7月7日、久我通久が侯爵に叙せられた。
家紋は五つ竜胆車。庶流に、中院家、北畠家、六条家、久世家、東久世家、岩倉家、千種家、植松家、梅溪家がある。
久我家第三十三代当主、侯爵久我通顕の長女は女優の久我美子である。
曹洞宗の開祖である道元は久我家の出身とする説もある。菩提寺は京都北区紫野大徳寺内清泉寺。
久我侯爵家に伝来する、池大納言家領相伝文書案や当道座管領関係文書などの約2,800点にも及ぶ膨大な公家文書は、久我通久が皇典講究所初代副総裁であった縁により、現在は國學院大學図書館に収蔵されている。
系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。
村上天皇 ┃ 具平親王 ┃ 源師房 ┃ 顕房 ┃ 雅実1 ┣━━━┓ 顕通 雅定2 ┃ 雅通3 ┃ 通親4 ┣━━━┳━━━┯━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━━┓ 通宗 堀川通具 在子 久我通光5 土御門定通 中院通方 道元[3] 土御門通行 ┃ ┏━━━╋━━┳━━━┳━━━━┓ ┣━━━┓ 通子 通平6 通忠7 雅光 中院雅忠 六条通有 中院通成 北畠雅家 ┏━━━┫ ┃ 具房 通基8 後深草院二条 ┃ 通雄9 ┃ 長通10 ┃ 通相11 ┃ 具通12 ┃ 通宣13 ┃ 清通14 ┃ 通博15 ┣━━━┓ 豊通16 中院通世 ┃ 通言17 ┏━━━━┳━━━━┥ 邦通18 徳大寺公維 晴通19[4] ┣━━━━━━━━━━━━━━┓ 通堅20 岩倉具堯 ┣━━━━━━━━━┓ ┣━━━━┓ 敦通21 下津俸庵 岩倉具起 千種有能 ┏━━━╋━━━━┓ ┣━━━━┳━━━━┓ 通世22 通前23 久世通式 下津宗正 亀谷通尹 東久世通廉[5] ┃ ┣━━━┓ 梅渓季通 堯通24 広通25 ┏━━━━━━━━━┫ 通名26 通誠27 ┣━━━┓ ┃ 広幡豊忠 堀川広益 惟通28 ┃ ┃ 広幡長忠 通兄29 ┣━━━┓ ┣━━━━┓ 広幡前豊 久我信通31 敏通30 中院通維 ┃ 久我通明32 ┏━━━┥ 志通33 建通34[4] ┣━━━━┳━━━━┓ 通久35 愛宕通旭 北畠通城 ┣━━━┳━━━┓ 常通36 通保 壱岐俊通 ┃ 通顕37 ┣━━━┓ 誠通38 美子
脚注
参考文献
- 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』続群書類従完成会、2002年10月。 ISBN 978-4-7971-0738-8
- 序章第二節「久我家の概略と久我家領荘園研究のあゆみ」(上掲書のための新稿)
- 第一編第二章「中世前期の「久我家文書」と久我家の歴史」(改題:「中世前期の久我家と源氏長者」)初出:『國學院大學図書館紀要』第1号、1989年3月。
- 岡野友彦『源氏と日本国王』講談社、2003年11月。 ISBN 978-4-0614-9690-3