堀秀治
テンプレート:基礎情報 武士 堀 秀治(ほり ひではる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩の初代藩主。堀秀政の長男。
生涯
越前時代
天正18年(1590年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父が陣中で病死したため、家督を継ぐこととなった。11月6日、父同様に豊臣姓を与えられる[1]。
文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に参陣する。文禄2年(1593年)には伏見城工事に貢献した。
越後国主
これらの功績から、慶長3年(1598年)4月に越前北ノ庄18万石から越後春日山45万石へ加増移封された。ただし秀吉の命令で付属大名も越後に移ったため、堀家の家臣団は複雑な構造となり、秀治の知行裁量権も10万石余程度しか及ばなかったとされる[2]。また、越後に移封された際、領主交代の時は半分を残すことが例とされていた年貢米を、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が全て会津に運び出していたため、財政的に困窮した[3]。秀治は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、慶長5年(1600年)には福嶋の地に居城移転の計画を立てた[4]。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送った[3]。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧した(越後一揆、上杉遺民一揆)[3]。戦後、その功により家康から所領を安堵された。
一揆の直接原因は上杉氏によるものであるが、秀治は直江兼続に年貢を持ち出されて財政が困窮していたため、財政強化のために堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ、そのため領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行った結果とする説もある[4]。
慶長11年(1606年)5月に31歳で死去し、跡を嫡男の忠俊が継いだ[4]。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』 37頁
- ↑ 村山『シリーズ藩物語 高田藩』 P10
- ↑ 3.0 3.1 3.2 村山『シリーズ藩物語 高田藩』 P11
- ↑ 4.0 4.1 4.2 村山『シリーズ藩物語 高田藩』 P12