香西元長
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香西 元長(こうざい もとなが)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣で山城半国守護代。嵐山城主。
生涯
香西氏は元来讃岐国の武士であるが、元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。元長は明応6年(1497年)に山城下郡守護代に任ぜられた(上郡守護代であったのは赤沢朝経である)。永正4年(1507年)に、主君である管領・細川政元の丹波国出陣に際して役銭供出を拒否した賀茂社を焼き討ちしている。
政元の後継者を巡る争いで元長は細川澄之を支持していたが、澄之が家督を継承する望みが薄いことを悟ると薬師寺長忠・竹田孫七らと共謀し、6月23日に政元を暗殺して澄之を当主として擁立した(永正の錯乱)。そして一度は競争相手である細川澄元を京都から伊賀国へと駆逐するが、細川高国や澄元らの反撃を受けて澄之の邸宅であった遊初軒での戦いで流れ矢に当り即死した。
政元殺害の理由
細川家の嫡子となった澄元を補佐していた三好之長が自派の勢力を拡大して元長の出身地である讃岐にまで政治介入をしていた。また元長は政元の性格に不安を覚えだしており、しかも自らが補佐していた澄之に家督相続の望みがほとんど無くなったことから之長の勢力が細川家中で増大した事を憎悪して、澄之を擁立して権力を手に入れるために政元を殺害したのである[1]。