戸田康光
戸田 康光(とだ やすみつ、? - 天文16年(1547年))は、戦国時代の三河国の武将。田原城を根拠に渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった。初名は渥美半島統一をなした曽祖父・宗光にあやかり、先祖返りをし宗光と名乗るが、松平清康に従属して、偏諱を受けて康光と改める。弾正少弼を称する。
家系
略系図(全体のものは戸田氏の項を参照)
戸田伊豆守従五位下左衛門尉十郎信義(戸田氏の祖)―戸田彦太郎義成=戸田孫二郎頼重(弟)=戸田十郎義房(弟)―戸田十郎頼方―戸田十郎頼房―戸田弾正忠宗忠―戸田三郎綱光―戸田弾正左衛門宗光―戸田弾正忠憲光―戸田左近丞政光―戸田弾正少弼康光(徳川家康の継母の父)
武将列伝
康光は、戸田氏の宗主として、田原城を根拠地としつつ、二連木城(豊橋市)などに一族をおいて三河湾一帯を支配しようとしたが、北からは松平氏、東からは今川氏など、はるかに大きな戦国大名が東三河に進出してきたため、これらに屈服を余儀なくされた。康光ははじめ松平氏に従って娘の真喜姫(田原御前)を松平広忠に嫁がせるが、松平氏が松平清康の死後衰えて今川氏に服すると戸田氏も今川氏に従属した。系図によると真喜姫には、徳川家康の異母弟である松平忠政・松平家元・恵最・内藤信成らがいるとされるが、生母はそれぞれ別におり、自らの子として養ったか、後見という立場であったと考えられる。
天文16年(1547年)、康光は今川義元の命を受け、駿府に人質として送られる広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康、生母は広忠先妻・於大の方)を岡崎から迎え、駿府まで送り届ける任を負った。竹千代とその随員からなる一行は岡崎城を徒歩で出立し、渥美半島に入って老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅近く)から舟で駿府まで送り届けられる予定であったが、一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名、織田信秀のもとに到着した。
康光は織田家に通じて今川氏から離反したもので、後年家康が自ら述懐したところによれば、竹千代を1千貫(500貫とも)で売り払ったのだという。これに怒った今川義元は、田原に兵を差し向けることとなった。康光は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男戸田尭光ともども討死し、田原戸田氏は滅亡した。
子孫・一門
康光の次男・戸田宣光は父の命にて仁連木城に封ぜられ、仁連木戸田家と称することとなった。康光が今川と対峙した折、宜光は今川方についており、戸田家の血筋を保ち生き残った。その子孫が徳川氏に仕え、嫡統として戸田宗家となる(子孫には嫡流で松本藩の藩主となった松平康長(戸田松平家の祖)はじめとして幕末の水戸藩家老 戸田忠太夫・安島帯刀なども輩出した)。
康光の弟・戸田光忠は脱出して岡崎に逃れ、後に松平氏に仕えるが、戸田宗家の居城、田原城を奪回して支流ながら田原城主となり以降、その子孫は田原戸田家という様になる。光忠の孫 戸田尊次が家康のもとで戦功をあげて伊豆国下田に5000石を与えられ、関ヶ原の戦いの後に田原に1万石で復帰した。子孫は江戸時代に譜代大名となり、宇都宮藩や足利藩として明治維新まで存続する。
遠縁としては戸田一西の子、戸田氏鉄に始まる大垣藩などがある。