薬師寺長忠

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薬師寺 長忠(やくしじ ながただ)は、戦国時代の武将細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代

父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ[1]

永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である[2]

しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した[3]

参考文献

  • 長江正一 『三好長慶』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1968年(新装版、1989年4月、ISBN 978-4-642-05154-5)

注釈

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  1. 『三好長慶』〈人物叢書〉14頁。
  2. ただし対立していたのは香西元長とする説がある。『三好長慶』〈人物叢書〉16頁。
  3. (『宣胤卿記』『多聞院日記』『瓦林政頼記』)『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。