田原親賢

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田原 親賢(たわら/たばる ちかかた、生年不詳 - 慶長5年(1600年)10月4日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。出家後の田原 紹忍(じょうにん、号は不思軒)の名でも知られる。奈多鑑基の子で、兄弟に兄の奈多鎮基(しげもと)、妹の奈多夫人大友義鎮(宗麟)正室)などがいる。養子に田原親虎(ちかとら)[1]田原親盛[2]。官位は尾張守、近江守、民部大輔。今市城妙見嶽城城主。

生涯

大友氏の家臣・奈多鑑基の子として誕生。主君・大友宗麟の義兄(妻の兄)にあたるため、側近として重用された。

大友氏一族・田原氏の傍系である武蔵田原家の田原親資(ちかすけ)の養子に入り、宗麟に服従しようとしなかった田原本家(田原親宏)の牽制を行う役目を担った。こうしたこともあり、親賢の大友家中における地位は大幅に引き上げられていき、永禄8年(1565年)には加判衆となり、臼杵鑑速の死後は国政の大部分を預かるようになっていった。こうした親賢の急速な台頭に対し、重臣の立花道雪は異を唱えたが受け入れられず、大友三老など他の重臣が死去していくにつれ、さらに立場を強化していった。

ただし、宗麟はキリスト教を好んだが、親賢はキリスト教を嫌悪したらしく、養子の親虎がキリシタンとなった(洗礼名はドン=シマン)ことを知ると妹の奈多夫人のすすめもありこれを廃嫡したほどである。しかし、あくまで宗麟に対しては忠実で、その所領は大友家中でも随一とされ、当時の宣教師の記録にもその旨の記載がある。

そして大友氏の帰趨を決する戦いとなった天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいては全軍の総指揮を任されることになったが、ここで親賢島津氏に大敗を喫してしまう。事実上、大友一族の凋落はこの一戦から始まっており、今日の親賢を無能と断定する評価の大部分はここから来ている。ただしもともと神仏を排撃する宗麟への不信感が高まっていたことや筑前・豊前などの遠方からかき集められた兵士も多かったことから大友方将兵の士気は低く、また贔屓にされる親賢への反感も相まって指揮系統も混乱を来していた。さらに敵である島津方の史料では「大友方でもっとも奮戦していたのが田原紹忍」と記述されていることもあり、実際の戦場での親賢の働きぶりは明確ではない。

ともあれ妙見嶽城に戻った親賢は敗戦の責を追及され、勢力の巻き返しを図る田原本家の親宏の主張で親宏から奪っていた所領を没収された。天正9年(1581年)には廃嫡した親虎に代わり宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛を養嗣子として迎え、家督を譲ったが、田原本家の田原親貫(親宏養子)が謀反を起こすとそれの討伐にあたるなど、引き続き大友氏のために尽くした。なお、キリスト教への嫌悪は増したらしく、耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものとし、キリスト教の施設の破却を宗麟に主張している。

島津氏の豊後侵攻(豊薩合戦)の際には妙見嶽城を親盛に任せ、高崎山城を守備している。後に大友氏の家督を継いだ大友義統が府内を脱出した際にはこれを高崎山城、ついで親盛の守る妙見嶽城へと送った。戦後も吉統の側近として、天正15年(1587年)の宗麟の葬儀の出席や、吉統の嫡子・大友義乗豊臣秀吉への謁見に随行している[3]

文禄2年(1593年)に大友氏が改易された後は、豊後岡城主の中川秀成に与力として2000石余で仕えたが[4]、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、他家へ仕えていた宗像鎮続(むなかた しげつぐ)や吉弘統幸をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。しかし石垣原の戦いで鎮続・統幸は討死し、吉統は黒田如水に降伏した。親賢は中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に投入され討死した。法名は真士院本誉紹忍居士。

参考文献

  • ルイス・フロイス著、松田毅一川崎桃太訳『完訳フロイス日本史7 大友宗麟篇II 宗麟の改宗と島津侵攻』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203586-4
  • ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2

田原親賢を題材とした作品

  • 滝口康彦『悪名の旗』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。 ISBN 4-12-201460-3
  • 滝口康彦『西の関ヶ原』学陽書房〈人物文庫〉、2012年。 ISBN 4-31-375279-5 上記作品の改版。

註釈

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  1. 柳原家第8代当主・柳原淳光(やなぎはら あつみつ、町資将の嫡子)の子。こちらも参照。
  2. 妹・奈多夫人の子で親賢の甥にあたる。
  3. フロイス日本史』によると、このとき一行の中に、島津戦で奮戦した志賀親次も加わってきた。秀吉は武功の誉れ高い親次を激賞して本来格上の親賢よりも上座に座らせ、後に淀城に義乗を招いた際にも親次は招待したものの親賢は呼ばないなど、待遇に差をつけたという。
  4. 『フロイス日本史』によれば、大友家重臣時代の最盛期には親賢だけで7000人の兵力を抱えていたとされる。後の豊臣家の軍役負担基準(100石につき5人)に従えば14万石クラスの大名であったことになる。当時の豊前国の総石高が30万石余りであるから、この7000人という動員兵力には豊前国を預かっていた親賢自身の直轄兵力に加えて寄騎の国人衆も加算されている可能性がある。しかしながら、そうだとしても、少なくとも当時は親賢単独で1万石を越える大名並みの領地を持っていた可能性が高い。