細野藤敦
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細野 藤敦(ほその ふじあつ、天文10年(1541年)- 慶長8年(1603年))は伊勢国の豪族、長野氏の一族。父は細野藤光で、分部光嘉、川北藤元の兄。壱岐守。諱は「守清」とも。入道名・伊三。安濃津城主。
生涯
剛勇を以て知られるが、北畠家より養子に入った主君長野具藤とは仲が悪かった。
永禄年間(1558年 - 1569年)に、安濃津城を築城した。
永禄11年(1568年)に織田信長が長野領に侵攻してきたときは、和睦を主張する弟分部光嘉らの反対を押し切って、自城に籠って防戦しようとした。 分部光嘉、川北藤元らは織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策し、藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、具藤に藤敦を攻めさせた。 藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
しかし、信包とは折り合いが悪かったようで、天正5年(1577年)2月に信包の軍勢に居城・安濃城を攻められ弟二人は戦死。自身も城を落ち延び、蒲生氏郷を頼った。
後に豊臣秀吉が天下人となると、その家臣として仕え、秀吉側室の松丸殿や大政所の家司を務めた。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属して失領。1603年に京都にて64歳で没した。