島津勝久

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島津 勝久(しまづ かつひさ、文亀3年8月18日1503年9月8日) - 天正元年10月15日1573年11月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国大名島津氏第14代当主。初名は忠兼。

生涯

文亀3年(1503年)、 島津氏第11代当主・島津忠昌と母・大友氏の間に三男として誕生。幼名は宮房丸、又八郎。妻は禰寝重就の娘。

室町時代末期の頃の薩摩守護・島津氏は、家中の内乱や当主の相次ぐ急死により弱体化しており、そのような中で勝久は永正16年(1519年)に兄で13代当主の島津忠隆の死去によりその跡を継いだ。急遽家督を継いだこともあり政権基盤は弱く、そのため島津氏の有力分家である伊作家の協力を得るために伊作忠良(島津忠良)の長男・貴久を養子に迎えて家督を譲ることを表明した。ところが、別の有力分家である薩州家第5代当主・島津実久がこの決定に猛烈に抗議したために受け入れ、勝久と伊作貴久との養子縁組を解消した。これは島津実久の妹が勝久の正室であり、実久は勝久に取って代わろうとしたものと考えられている。

その後、実久の圧迫に耐えかねた勝久は再び伊作忠良に助けを求め、島津実久を追うことには成功した。ようやく、復帰して政務を執ろうとしが今度は伊作家の貴久と対立。伊作忠良親子に攻められたため大隅国へ逃れ、母の実家である大友氏を頼って豊後国へ亡命した。

天正元年(1573年)、同地の浜の市という地で死去。享年71。法号は大翁妙蓮大禅定門。墓所は鹿児島の隆盛院、後に福昌院。ここに鎌倉時代から続く薩摩大隅守護家の島津氏は断絶した。

子に島津忠吉らがいる。

子孫は大友氏に仕え、大友氏の豊臣家による改易後は関東の徳川家に仕えた。

テンプレート:島津氏歴代当主