佐伯千仭
佐伯 千仭(さえき ちひろ、男性、1907年12月11日 - 2006年9月1日)は、熊本県出身の日本の刑法・刑事訴訟法学者。法学博士(京都大学、学位論文「刑法に於ける期待可能性の思想」)。弁護士。元京都帝国大学教授、立命館大学名誉教授。
略歴
- 1907年 - 熊本県上益郡木山町出生
- 1927年 - 旧制第五高等学校卒業。京都帝国大学法学部入学
- 1929年 - 高等試験行政科及び司法科試験合格
- 1930年 - 京都帝国大学法学部卒業。同年助手に任官、立命館大学、関西大学講師
- 1931年 - 京都帝国大学助教授となる。
- 1933年 - 滝川事件の際に京都大学を辞職し、立命館大学教授に就任。
- 1934年 - 京都帝国大学法学部助教授に復帰
- 1941年 - 京都帝国大学教授。
- 1946年 - 戦争中の著作の国家主義的内容を問題にされて教職不適格指定を受け、京都大学追放。
- 1947年 - 弁護士登録。
- 1951年 - 法学博士(京都大学、学位論文「刑法に於ける期待可能性の思想」)。教職不適格取り消し。神戸大学講師に就任。
- 1952年 - 立命館大学、東京都立大学、甲南大学講師。
- 1954年 - 立命館大学教授に就任。
- 1973年 - 立命館大学教授名誉教授。
- 2006年 - 9月1日、98歳で逝去。
人物
近代派であり主観的違法論を採用する宮本英脩の弟子だが、師と異なり古典派のうち、客観的違法論を支持し前期旧派の立場に立つ。 佐伯は宮本に学生時代は宮本の刑法理論を疑うことは知らなかったが、助手として宮本に指導されている時にヴィルヘルム・ヴィンデルバントの『規範と自然法則』という論文を読み、主観主義違法論に疑問を感じるようになったという[1]。そしてメツガーの「評価は命令に先行する」という命題のもと、ドイツの違法論を民法に応用した末川博の『権利侵害論』を読み客観的違法論を支持することを決意した[2]。
刑法学における業績で著名であるが刑事訴訟法に関する著述・論文も極めて多く、特に大学教授と弁護士を兼任して以降は証拠法や秘密交通権に関する論文が有名であり、佐伯の還暦記念論文集『犯罪と刑罰 下巻』は刑事訴訟法に関する論文が主たるものになっている。 日本における陪審制度の研究のほか、熱心な死刑廃止論者としても知られている。なお死刑廃止の思想的背景として師の宮本の強い影響がある[3]。
いわゆる滝川事件の復帰組の一人であるだけでなく、「極東国際軍事裁判」をはじめ、松川事件、東京中郵郵便法違反事件、東京都教組地公法違反事件など戦後史に残る事件に関わる一方で、日本学術会議会員、法制審議会委員など学会・法案立案の要職を歴任した。 昭和38年から46年まで務めた法制審議会では常に少数派として意見を提出する重要な役割であった、と当時日弁連副会長であった中坊公平は述懐している。[4]。 特に改正刑法草案はその国家主義的性格から平野龍一東京大学教授を筆頭に学会・日弁連などから強く批判されたが、当時の学生運動によって研究者は法制審議会に参加することが困難になり佐伯以外の全ての学者が法制審議会から去る状況の中、佐伯はただ一人改正刑法草案の要綱案に反対する立場にあった[5]。
学説
佐伯は、師である宮本と違法論においては対立したが、宮本による被害が軽微な場合の可罰類型阻却原因に関する研究を発展させて可罰的違法性論を提唱し、構成要件は単なる没却的・記述的な行為類型ではなく、可罰的な違法行為の類型であると主張した。 佐伯の可罰的違法性の理論や期待可能性の理論は伊達秋雄や藤木英雄に極めて高く評価され(宮沢浩一慶応大学名誉教授は「私の刑法への関心は佐伯教授の「刑法における期待可能性の理論」によって喚起され、決定づけられた」と言っている[6])、特に藤木は佐伯の還暦記念論文集に『可罰的違法性の理論の訴訟法的課題』という論文を献呈し、佐伯説の深化・批判的発展を試みた。 また、間接正犯の成立範囲を狭め、かえって要素従属性を緩和していくことによって共犯として処理していく拡張的共犯論などでも知られる。
また、小野清一郎が日本に紹介した構成要件理論を通説化したことも評価されている[7]
滝川事件と佐伯千仭
滝川事件当時京大法学部助教授だった佐伯は、文部省による瀧川幸辰の休職処分に抗議して辞職、立命館大学法学部(教授)に転じた。
しかし、残留した法学部教官の説得に応じ、翌1934年、京大に復帰し助教授に再任されている。佐伯ら「復帰組」教官は世論の厳しい批判を受け、佐伯もまた「立命に対しては本当に申し訳ないことになってしまった」と後日述懐している。彼らの復帰は「滝川ら辞任組が復帰できる状況になった時にくさびになるような人間がいなければ困る」という「残留組」教官の言い分に抗し得なかったからだとされる。また当時この件について久野収(滝川の免官処分に反対し学問の自由と大学自治を擁護する運動を進めていた)から非難された佐伯は、「敗北して帰るのだからどんな批判も甘受する」と答えている。
その後1941年教授に昇任した佐伯は、第二次世界大戦終結とともに黒田覚(法学部長)ら他の復帰組教官とともに滝川の復帰工作を開始し実現させた。この際、佐伯は鳥養利三郎京大総長とともに、「大学自治を滝川事件以前の状態に復帰する」旨の総長・文部省の合意文書草案を作成している。
しかし京大法学部再建のため全権を委任されて復帰した滝川を委員とする法学部の教員適格審査委員会は、戦争中の佐伯の著作の国家主義的内容を問題にして佐伯を教職不適格とした(これと前後して他の復帰組教官も京大を去っている)。これら一連の事態の背景には復帰組に対する滝川の個人的感情があったという見方もある[8]。 特に滝川の教え子である平場安治は「追放を行ったのは、実質上瀧川幸辰法学部長その人によってであった」と明言している[9]。
不適格処分に対して、佐伯は京都大学新聞社発行の「学園新聞」1946年11月11日号に「刑法に於ける私の立場-追放の判定を駁す-」と題する反駁文を発表している[10]。
このような京大との軋轢から二度と京大には足を踏み入れるものかと決めていたが、京大での同僚であった中田淳一に「東大に学位請求されたら京大は格好がつかない」と説得され、京都大学から博士号を受けた[11]。
京都大学追放の20年後の1967年から佐伯は京都大学大学院法学研究科の刑法講座講師を担当した
戦中の佐伯千仭
上記のように国家主義的な著述を問題視されて京大を去った佐伯であったが、戦前・戦中は大半の学者が、主観主義と親和性の高いナチス刑法学への共感、そして社会的圧力によって批判を控えるなか、佐伯はその批判を止めることがなかった[12]。 『刑法におけるキール学派』ではナチスに親和的なキール学派を批判したが、これに対して他の学者からナチスに理解をもてと批判された、と述懐している[13]。
主な著書
- 『ドイツにおける刑法改正論』(有斐閣、1962年)
- 『犯罪と刑罰 佐伯千仭博士還暦祝賀』(上)(下)(有斐閣、1968年)
- 『刑法改正の総括的批判』(日本評論社、1975年)
- 『刑事訴訟の理論と現実』(有斐閣、1979年)
- 『刑法講義総論』(四訂版)(有斐閣、1984年)
- 『刑法における期待可能性の思想』(増補版)(有斐閣、1985年)
- 『共犯理論の源流』(成文堂、1987年)
- 『死刑廃止を求める 法セミセレクション』(団藤重光、平場安治との共編)(日本評論社、1994年)
- 『刑事法と人権感覚 -ひとつの回顧と展望』(法律文化社、1994年)
- 『陪審裁判の復活』(第一法規出版、1996年)
- 『刑法における違法性の理論』(有斐閣、1974年)
- 『新・生きている刑事訴訟法 -佐伯千仭先生卆寿祝賀論文集』(刑事訴訟法研究会佐伯先生卆寿祝賀論文集編集委員会)(成文堂、1997年)
- 『戦争と犯罪社会学』(有斐閣、1946年)
- 『総合判例研究叢書刑法(22)期待可能性』(米田泰邦との共著)(有斐閣、1964年)
- 『法曹と人権感覚』(法律文化社、1970年)
- 『刑事裁判と人権』(法律文化社、1957年)
- 『生きている刑事訴訟法』(編著)(日本評論社、1965年)
- 『刑法総論』(有信堂高文社、1952年)
- 『刑法各論』(補訂版)(有信堂高文社、1981年)
- 『刑法総論』(弘文堂書房、1944年)
関連項目
脚注
- ↑ 佐伯千仭「違法論における民法と刑法の交錯」『刑事法と人権感覚』25頁
- ↑ 佐伯千仭「違法論における民法と刑法の交錯」『刑事法と人権感覚』26頁
- ↑ 佐伯、伊達秋雄、後藤昌次郎「鼎談」『刑事法と人権感覚』112頁
- ↑ 中坊公平「少数者の立場 佐伯先生の話を聞いて」『刑事法と人権感覚』193頁
- ↑ 中坊公平「少数者の立場 佐伯先生の話を聞いて」『刑事法と人権感覚』193頁
- ↑ 宮沢浩一『社会治療施設について』
- ↑ 村崎精一『罪数論のおける行為の単複の意義』
- ↑ 以上、松尾尊兊 『滝川事件』 岩波現代文庫、2005年 ISBN 4006001363 による。
- ↑ 平場安治「受難の刑法講座」『京大史記』1988
- ↑ 中山研一『佐伯博士の刑法思想と「日本法理」(中)』(判例時報2015号、2008年)にその全文が掲載されている。
- ↑ 『疾風怒涛 一法律家の生涯』156p
- ↑ 佐伯、伊達秋雄、後藤昌次郎「鼎談」『刑事法と人権感覚』108頁
- ↑ 『疾風怒涛 一法律家の生涯』122p