細川氏綱
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細川 氏綱(ほそかわ うじつな)は、戦国時代前期の武将で、室町幕府最後の管領[1]。細川尹賢の子で、父の盟友でもあった細川高国の養子。摂津守護。
生涯
父の従兄弟であった細川高国の養子となる。天敵であった細川晴元の反撃を阻めず敗死した養父と、その晴元方に転じて生き残りを模索しながら殺害された実父、2人の仇を討つべく晴元打倒の機を窺い続けた。
天文12年(1543年)、ようやく復権をめざして、晴元を討つための兵を和泉で挙げる。畠山政国や遊佐長教、筒井氏などの畿内の有力者や、12代将軍足利義晴の支持を得たものの、当初は晴元の強大な力の前に圧倒的に不利であった。
ところが、三好政長(宗三)の処遇を巡って主君と仲違いした晴元軍の中核・三好長慶の氏綱側への転属が決め手となり形勢は一変(江口の戦い)。天文18年(1549年)、遂に晴元を近江へと追放することに成功した。
天文21年(1552年)には長慶と共に上洛し、管領に任じられた氏綱だったが、長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かった。そして山城淀城に長慶の監視付きで居城を与えられた氏綱は、永禄6年12月20日(1564年1月4日)に失意のうちに死去した。その後、後任の管領が任じられることはなかった。
脚注
関連項目
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