津川義冬

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津川 義冬(つがわ よしふゆ、天文14年(1545年)- 天正12年3月6日1584年4月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏家臣松ヶ島城城主。名は義永とも。

本姓源氏足利氏の一門で室町幕府三管領筆頭の斯波氏の血筋である。尾張国守護斯波義統の三男で、斯波義銀の弟。斯波氏傍流の津川氏を称する。

なお、「続群書類従 巻百十三」の『武衛系図』ではは近治、官位は従五位下、通称は玄蕃允とする。

経歴

最初は織田信長に仕えたが、器量を見込まれて信長の次男・織田信雄家老に任じられた。妻は北畠具教の娘で、信雄の妻の姉にあたり、義冬は信雄の義弟である[1]

天正10年(1582年)、本能寺の変後、松ヶ島城を預けられ、南方の奉行とされる[2]。同年1月13日、大坂での津田宗及の茶会に出席している。

信雄が羽柴秀吉と対立するようになると、秀吉は義冬・岡田重孝浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって3人共殺害された。秀吉は義冬らの殺害を契機に小牧・長久手の戦いで信雄と干戈を交えることとなる。

関連項目

脚注

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参考文献

  • 『日本史諸家系図人名辞典』(講談社
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  1. 『織田家雑録』、『重修譜』
  2. 『勢州軍記』