空也
テンプレート:Infobox Buddhist 空也(くうや[1])は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。
俗に天台宗空也派[2]と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。
踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた[3]。
生涯
後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』(くうやるい)[4]や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。
没年の記録から逆算して、延喜3年(903年)頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。『尊卑分脉』によれば仁明天皇の皇子・常康親王の子とされているが[5]、常康親王は貞観11年(869年)に没しており、年代的にはやや無理がある[6]。
延喜22年(922年)頃に尾張国分寺にて出家[4]し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。
天暦2年(948年)比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある[7]。天暦4年(950年)より金字大般若経書写を行う。天暦5年(951年)十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。
応和3年(963年)鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深める。
天禄3年(972年)東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。
彫像
空也の彫像は、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作)が、最も有名である。他には、月輪寺(京都市右京区)所蔵、浄土寺(松山市)所蔵、荘厳寺(近江八幡市)所蔵が代表的である。いずれも鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財である。彫像の造形は、特徴的である。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、わらじ履きで歩く姿を表す。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられている。この6体の阿弥陀像は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。後世に作られた空也の彫像・絵画は、全てこのような造形・図像をとる。
脚注
- ↑ 「こうや」とも称される。
- ↑ 京都市中京区の空也堂極楽院を中心とする一派が天台宗空也派と称されるが、独立した宗派、あるいは天台宗内で公認された流派ではない。
- ↑ 有名な興願僧都宛消息文に、空也の言葉と伝えるエピソードの引用がみえる(一遍#思想と評価参照)。また『一遍聖絵』には、空也の遺跡とされる平安京東市の故地(現在の西本願寺付近)を訪れ、大々的に踊念仏を催した様が描かれている。岩波文庫(大橋俊雄校注、2000年)や、『一遍上人全集 一遍聖絵 他』(春秋社、2001年)を参照。
- ↑ 4.0 4.1 『空也誄』…空也の没後間もなく源為憲によって書かれた伝記。『空也上人誄』とも。
- ↑ 『国史大系尊卑分脉 第三篇』(吉川弘文館、1961年)27頁
- ↑ 堀一郎『空也』(吉川弘文館、1963年)
- ↑ 石井義長『空也上人の研究―その行業と思想』(法藏館、2002)
参考文献
- 石井義長 『空也上人の研究―その行業と思想』 法藏館、2002、大著
- 伊藤唯真編 『浄土の聖者 空也 日本の名僧5』 吉川弘文館、2004
- 堀一郎 『空也』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1963
- 速水侑 『平安仏教と末法思想』 吉川弘文館、2006