浜田広介
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに児童文学界の三種の神器と呼ばれた。
来歴
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。
1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに何作かの小説を著す。また1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に『黄金の稲束』が入選したのを機会に、コドモ社の児童雑誌『良友』から童話を発表するようになる。翌年には『途暗し』で北村透谷賞を受けたりするが、やがて童話作家を志すようになる(この間、鈴木三重吉からの『赤い鳥』への参加呼びかけを断っている)。
卒業後ほどなくコドモ社に入社し、児童雑誌『良友』『幼年之友』を編集。1923年(大正12年)から作家に専念した後も同誌から多くの童話を発表する。1925年には早大童話会を立ち上げる。1940年(昭和15年)に日本文化協会児童文化賞、1942年(昭和17年)に野間文芸奨励賞、1953年(昭和28年)に芸術選奨文部大臣賞、1957年(昭和32年)、1961年(昭和36年)に産経児童出版文化賞を受賞。山形県東置賜郡高畠町に記念館が建てられている。
作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。
だが1953年、鳥越信と古田足日の二人を中心とした「少年文学宣言」が発表され、小川未明と廣介は、古い児童文学として否定されるという、苦渋の晩年も送った。
エピソード
自作の詩「日本橋から」は古賀正男が無断で曲をつけ佐藤千夜子の歌でヒットした。著作権法に抵触すると聞かされた古賀は浜田に謝罪したが、当の浜田本人はそんなことも知らず、二人で大笑いした。
著書
- 『椋鳥の夢』新生社、1921年(広介童話全集』1)
- 『大将の銅像』実業之日本社、1922年
- 『ひろすけ童話讀本』文教書院、1924-29年
- 『頼朝と義経』子供の日本社、1925年(英傑伝叢書)
- 『小鳥と花と』文教書院、1925年
- 『飛んで来い』叢文閣、1926年
- 『河うその赤んぼ』創生堂、1927年
- 『かっぱと平九郎』岡村書店、1939年
- 『ニゲタカメノコ』文昭社、1939年
- 『旅に出た王子』岡村書店、1939年
- 『竜の目の涙』フタバ書院、1941年
- 『兎の画家』新潮社、1941年(日本童話名作選集)
- 『蠅の目と花』フタバ書院、1941年
- 『タノシイコドモ』富士屋書店、1941年
- 『わにとへいたいさん』新生閣、1944年
- 『コドモトイヌ』昭和出版創立事務所、1944年
- 『ひのきまる』尚文館、1947年
- 『花びらの旅』小澤出版社、1947年
- 『一つの願い』国民文芸社、1948年
- 『おかあさんと花』二葉書店、1948年
- 『つよいたんぽぽ』児童図書刊行会、1948年
- 『みち』童画書房、1948年
- 『ひろすけ童話選集』1-6、講談社、1948–50年
- 『春の氏神』桜井書店、1948年(こどもかい文庫)
- 『雪国のおんどり』講談社、1949年
- 『かえるのきょうだい』主婦之友社、1949年
- 『雪のふる国』小峰書店、1950年(日本童話小説文庫)
- 『小さな川の小さなはし』羽田書店、1950年
- 『たぬきとつばめ』むさし書房、1951年
- 『浜田広介童話集』新潮文庫、1953年
- 『こぶたのペエくん』日本書房、1954年
- 『くまがさるからきいた話』日本書房、1954年
- 『ひろい世界』日本書房、1954年
- 『お山の子ぐま』金の星社、1954年
- 『浜田広介童話選集』全6巻、講談社、1956年
- 『ひろすけ童話』1-8』集英社、1967年
- 『童話文学と人生』集英社、1969年
- 『ひろすけ幼年童話文学全集』1–12、集英社、1970–73年
- 『浜田広介全集』全12巻、集英社、1975–76年
伝記など
- 浜田留美『父浜田広介の生涯』筑摩書房、1983年
- 小林正『浜田広介おぼえがき』北郊書房、1985年
- 羽山周平『さくら花咲く庭にして 浜田広介おぼえがき拾遺』北郊書房、1992年
- 西沢正太郎『ひろすけ童話ひとすじに 日本のアンデルセン浜田広介の生涯』PHP研究所、1994年
- 浜田留美『「ひろすけ童話」をつくった浜田広介 父浜田廣介の生涯』ゆまに書房、1998年