石油輸出国機構
石油輸出国機構(せきゆゆしゅつこくきこう、テンプレート:Lang-en-short)は、石油産出国の利益を守るため、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟で1960年9月14日に設立された産油国の組織。本部はオーストリアのウィーン。
頭字語(略称)のOPEC(日本語発音:オペック、アメリカ英語発音:テンプレート:IPA-en オウペク)で呼ばれることが多い。
目次
目的と組織
石油輸出国によって結成され、輸出国の利益を守ることを目的とする。1970年代には石油の価格決定権を国際石油資本より奪い、2度のオイルショックを引き起こした。1986年からは石油価格の決定権は自由市場へと移ったが、2007年においても全世界の原油生産量の42%、石油埋蔵量の3分の2を占め[1]、石油供給の鍵を握る存在である。このため、生産の調整などによって原油の価格に影響を及ぼすことができる存在となっている。また、加盟各国の代表的な原油の価格を加重平均した数値をOPECバスケット価格として発表しており、原油価格の重要な指標となっている。
OPECの最高決定機関は、全加盟国が参加する総会である。総会は6月と12月の年2回開かれるほか、緊急案件のある場合には臨時に開くことも可能である。4分の3以上の参加によって開くことができ、全会一致によって決議となる[2]。
加盟各国
現加盟国
12カ国。
- テンプレート:Flagicon イラク 1960年
- テンプレート:Flagicon イラン 1960年
- テンプレート:KUW 1960年
- テンプレート:Flagicon サウジアラビア 1960年
- テンプレート:Flagicon ベネズエラ 1960年
- テンプレート:Flagicon カタール 1961年
- テンプレート:LBA 1962年
- テンプレート:Flagicon アラブ首長国連邦 1967年
- テンプレート:ALG 1969年
- テンプレート:Flagicon ナイジェリア 1971年
- テンプレート:Flagicon アンゴラ 2007年
- テンプレート:Flagicon エクアドル 2007年(再加盟、前加盟期間1973 - 1993年)
脱退国
- テンプレート:GAB 1975 - 1995年
一時脱退国
- テンプレート:IDN 1962 - 2009年(2009年1月一時脱退)
加盟候補国
- テンプレート:Flagicon ノルウェー
- テンプレート:Flagicon ボリビア
- テンプレート:Flagicon メキシコ
- テンプレート:Flagicon シリア
- テンプレート:SUD
- テンプレート:Flagicon ブラジル
設立背景
1950年代後半、ベネズエラの石油資源の先行きに対する不安と、アメリカの消費拡大に対する不安を感じていたベネズエラのペレス・アルフォンソは、アラブの石油産出国と団結して行動する協定を思いついた。
1959年2月、石油を寡占していた国際石油資本(メジャー)が、産油国の了承なしに原油公示価格の引き下げを発表すると、これに強い不満を抱いた産油国はアラブ連盟第1回アラブ石油会議をカイロにて開催して、国際石油資本に対して原油価格改訂時の事前通告を要求するが受け入れられなかった。
その会議の際に、ペレス・アルフォンソはサウジ・アラビアの石油鉱物資源相アブドゥッラー・アッ=タリーキーと会談して、自分の考えていた協定について合意を求めた。石油メジャーが廉価で大量の原油を産出していたため、産油国の利益が少ないと考えていたタリーキーは、その求めに応じて合意した。後日、カイロにアラブの石油産出国の代表者を呼んで、その協定についての非公式な会合を開き、その非公式な協定について各国の署名を得た。
1960年8月、国際石油資本が再び価格の引き下げを行うと、石油産出国はそれに反発し、1960年9月14日、イラクのアブドルカリーム・カーシムの呼びかけに応じてバグダードに集まり、中東を中心とした産油国は石油輸出国機構を設立する。
カルテル化とオイルショック
1969年のリビア革命により政権を握ったムアンマル・アル=カッザーフィーは、国際石油資本7社に次ぐ力を持っていたオクシデンタル・ペトロリウムと交渉し、リビア以外に有力油田を持っていなかった同社に揺さぶりをかけて、1970年に史上初めて産油国側からの原油価格改定に成功した。これは国際石油資本、OPEC双方に大きな影響を与え、OPECは1971年2月のテヘラン協定、3月のトリポリ協定で原油価格を国際石油資本と協議して決定することに成功し、これ以後しばらくは石油価格はOPECと国際石油資本との協議により決定されることとなった。またこの協定により、原油価格を値上げする方向性を打ち出す。1972年のリヤド協定により、石油採掘事業そのものも国際石油資本から産油国への権利委譲を促すことが合意される。これらの決定により原油価格の決定権が徐々に、国際石油資本から石油輸出国機構加盟の産油国側へと移ることになった。
OPECが完全に石油価格の決定権を握ったのは、1973年の第1次石油危機においてである。1973年10月に第四次中東戦争がはじまると、10月16日にはOPECの中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、さらに翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構がイスラエルを支持する先進諸国を標的に石油禁輸を実行。1973年12月には、石油輸出国機構は更に130%の値上げを実行し、原油価格は10月以前に比べて約4倍になった。これによって石油の暴騰と不足がおき、オイルショックと呼ばれる経済の混乱が起きた。これによってOPECはその存在感を世界中に示した。さらに加盟国内の油田、石油パイプライン、製油設備の国有化をすすめ、国際石油資本の影響力をさらに排除する。先の値上げにおいてOPECは国際石油資本に何の相談も行わず、以後石油価格は完全にOPECが決定することとなった[3]。
絶頂期
1974年に入ると石油禁輸は終了し、それにともなってオイルショックも終息したものの、原油価格は下がらなかった。OPECは完全に原油価格の主導権を握り、カルテル化した。そして、その後も原油価格を少しずつつり上げ続けた。このころOPECの主導権を握ったのが、世界最大の原油生産国であるサウジアラビアである。サウジアラビアはアハマド・ザキ・ヤマニ石油相の指揮の元、OPEC内の利害関係を調整し、また原油需要に応じて自国の原油生産高を調整させることで需要と価格を統制し続けた。
1975年12月21日に、ベネズエラ人のカルロスら6人のテロリストが閣僚会議開催中のOPEC本部を襲撃し、警備の警官と銃撃戦の後、ヤマニなど各国代表ら総勢70名を人質にとった。テロリスト側はオーストリア当局を相手に交渉を開始したが、その後OPEC側はテロリストの全ての要求を受け入れた。カルロスらはその後用意された飛行機でアルジェリアへ逃走したが、アルジェリア当局にほとんどの身代金を没収された。
その後も、1976年にサウジアラビアとイランやイラクとが対立して、サウジが5%、イランやイラクが10%値上げをするなどいくらかの対立はあったものの、1977年にはサウジの値上げによって統一価格が復活し、1978年後半まではおおむねOPECの市場支配は揺らがなかった。
第2次オイルショック
1978年10月に、大産油国であるイランで政情悪化によるストライキが起き、石油価格が暴騰した。これに伴い、OPECも10%の値上げを決定した。その後、1979年1月にはモハンマド・レザー・パフラヴィー国王が亡命し、イラン革命が勃発。これと、アメリカの石油需要の急拡大によって石油価格はさらに暴騰した。これを受けてOPECは価格を調整しようとしたが、日々価格が暴騰する情勢下で統一価格を維持することは不可能であり、合意の形成に失敗。原油価格はとめどなく上がり続けた。第二次オイルショックである。この状態は1980年まで続き、その後も石油価格は高値を続けた。
衰退と復活
こうした状況は、1982年ごろから変化する。オイルショック後、先進諸国の石油備蓄の拡大、代替エネルギーへの促進、北海油田やメキシコなどの非石油輸出国機構の産油量の増大などで供給過剰感が増大し、原油価格は低下し始めた。さらに生産調整や原油価格設定をめぐる足並みが乱れ、そして、1985年から1986年にかけて原油価格の大暴落がおき、OPECは価格の支配力を大幅に減退させた。そして1986年、サウジアラビアが原油の公示価格制を放棄し、OPECが原油価格を決定できる時代は終わりを告げた[4]。そのかわりに、OPECは指標として加盟諸国の代表的な原油価格を加重平均した数値を1987年より発表するようになった。これはOPECバスケット価格と呼ばれ、原油価格の重要な指標となった。この原油安は1990年代を通じて続き、OPECの影響力は減退した。
その後、1999年に全加盟国が協調して生産調整を行い、これによって原油価格を引き上げることに成功した[5]。2000年代にもこの協調は続き、さらにBRICs諸国など新興国の需要増大によって石油価格は高値が続き、OPECの影響力も再び強まってきている。
脚注
- ↑ 2009年 エネルギー白書 第2部 第2章 第2節 一次エネルギーの動向-1
- ↑ 日本国外務省 OPECの概要
- ↑ 「石油を支配する者」p110-112 瀬木耿太郎 岩波書店 1988年6月20日第1刷発行
- ↑ 「知られていない原油価格高騰の謎」p75 芥田知至 技術評論社 平成18年5月5日初版第1刷
- ↑ 「石油価格はどう決まるか 石油市場のすべて」p65 甘利重治、山岡博士著 河村幹夫監修 時事通信社 2007年12月20日第1刷
関連項目