孝安天皇
孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 同102年1月9日)。日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)・大倭帯日子国押人命(古事記)。
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある。(欠史八代の実在説を参照。)
系譜
孝昭天皇の第二子。母は瀛津世襲の妹・世襲足媛(よそたらしひめ)。
皇居
都は室秋津島宮(むろのあきづしまのみや。現在の奈良県御所市室)。
事績
事績は全く伝えられていない。孝昭天皇68年正月に立太子し、同83年父天皇の崩御に伴い、翌年正月に即位した。在位102年は歴代天皇中最長だが、信憑性は皆無である。『古事記』に123歳、『日本書紀』に137歳。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。玉手丘陵上に所在する。
『古事記』には「御陵在玉手崗上也」とあるだけで、『日本書紀』には「玉手丘上陵」に葬るとあり、ここで初めて陵名が掲げられた。『延喜諸陵式』は『日本書紀』にしたがって陵名を掲げて、のちにこれが用いられた。『延喜式』によれば「兆域東西六町南北六町守戸五烟」であり、遠陵に班した。
中世、陵の所在が不明になり、元禄年間以来、検討され、室村のとある古墳が擬せられたが、『歴帝陵』の一本および『大和志』が現在の地を推して以来、定説となった。幕末、修陵のときおおいに修治が加えられ、その竣工にさいして慶応元年3月12日、広橋右衛門督が遣わされ、修陵奉告が行なわれた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。