赫連勃勃

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テンプレート:基礎情報 中国君主 赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ)は、五胡十六国時代(大夏・北夏・胡夏)の創建者。劉衛辰の三男。

生涯

後漢末の南匈奴右賢王去卑の後裔で、匈奴鉄弗部の出身であり、攣鞮部前趙)・独孤部破六韓部と同族である。なお、鉄弗とは匈奴の父と鮮卑の母をもつ意であるという。

父の劉衛辰はオルドス代来城に割拠し、前秦の西単于であった。建元19年(383年)に前秦が淝水で敗れると衛辰は勢力を伸ばし、後秦からは大将軍・大単于・河西王・幽州に拝され、西燕からは大将軍・朔州牧に拝されて懐柔を受けた。

建初5年(390年)から建初6年(391年)まで、衛辰は3度北魏を攻めるが敗れ、同年北魏の拓跋珪に攻められて殺された。勃勃は三城郡の鮮卑叱干部へ逃れ、ついで高平郡の鮮卑破多蘭部の没奕干の元へ逃れ、その娘を娶った。建初6年(392年)に没奕干と共に後秦へ降った勃勃は、文桓帝から驍騎将軍に任ぜられ、奉車都尉を加えられた。ついで安遠将軍に進み、陽川侯に封ぜられた。また安北将軍に昇り、五原公に改封され、鮮卑雑虜二万余落を統括して朔方郡に鎮した。なお、天興2年(399年)に勃勃の弟の劉文陳は北魏へ降り、宿六斤氏を賜っている。

弘始9年(407年)、勃勃は没奕干を殺してその部衆を併せ、後秦と通交のあった柔然の使者を拘束して反旗を翻し、大夏天王・大単于と称して国号を大夏、建元して龍昇元年とした。同年、姑臧に割拠していた南涼禿髪傉檀を攻めて大いに破り(陽武の戦)、また後秦の遠征軍を破って(青石原の戦)オルドスを平定した。その後、勃勃は盛んに南下して後秦を攻めたが、オルドス南境にある杏城・安定の要害を陥せず鳳翔5年(417年)まで膠着状態が続いた。

鳳翔元年(413年)、勃勃はオルドスの地に統万城を築き、劉氏から赫連氏に改めた。また鳳翔2年(414年)に北燕と、鳳翔3年(415年)には北涼とそれぞれ盟を結んで、北魏・後秦、北魏・西秦同盟に対抗した。鳳翔5年(417年)、東晋劉裕が北伐して長安(常安)を占領し、後秦を滅ぼした。同年、劉裕が子の劉義真を留めて南帰すると、勃勃は兵を四軍に分けて関中平原へ進出し、翌鳳翔6年(418年)に長安を攻略して皇帝を称した。勃勃は統万城に北地尹を置いて都と定める一方、長安には南台を置いて南都とし、翌419年真興と改元した。この真興元年をもって夏の成立と見なす研究もある。

真興6年(424年)、武烈帝は長安で駐屯した大将軍・皇太子の長男赫連璝を廃嫡し、四男の酒泉公赫連倫を太子に立てた。廃嫡されたは父に反撥して長安で挙兵し、統万城へ攻め上って異母弟の倫を敗死させたが、同じく異母弟の太原公赫連昌(武烈帝の三男)に敗れて殺害された。武烈帝は改めて昌を皇太子とした。真興7年(425年)に45歳で崩御し、嘉平陵(陝西省延川県説と甘粛省慶陽市説がある)に葬られた。一説には落雷が死因であるという。

武烈帝の性格は凶暴残忍で殺戮を好んだといわれ、仏教説話にも武烈帝が関中を占領した際、仏僧を大量に虐殺したと記している。一方で、人並み外れた風貌や見識は姚興や劉裕を酔わせたとも記されている。その業績としては、中国史上初めて馬面をひるがえらせた城郭建築法や、史上二番目の年号を記した貨幣「太夏真興」の鋳造などが挙げられる。

先代:
の初代皇帝
407年 - 425年
次代:
赫連昌