佐々木只三郎
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佐々木 只三郎(ささき たださぶろう、天保4年(1833年) - 慶応4年1月12日(1868年2月5日))は、江戸時代末期(幕末)の武士・旗本、京都見廻組隊士。泰昌、唯三郎とも。兄に手代木勝任(直右衛門)がいる。
生涯
天保4年(1833年)、陸奥国の会津藩領内(福島県)において会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本・佐々木弥太夫の養子となる。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる。
京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・手代木直右衛門を動かし、清河八郎の策を容れ、文久2年(1862年)、浪士組結成に伴い京都へ上る。只三郎は決裂した清河に抗し、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。文久3年(1863年)には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。元治元年(1864年)には京都見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられ、禁門の変にも出動。元見廻組隊士・今井信郎の証言から、慶応3年(1867年)の京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる(近江屋事件)。
戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、樟葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負い、慶応4年(1868年)、和歌山に敗走中、紀三井寺で死去。享年35。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺、福島県会津若松市「武家屋敷」内。
関連作品
- 小説
- 随筆
- 司馬遼太郎「見廻組のこと」『歴史と視点』新潮社。
- 映画