生駒親正
テンプレート:基礎情報 武士 生駒 親正(いこま ちかまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三中老の一人。
生涯
生駒親重の子として美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)に生まれる。永禄9年(1566年)、織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。その後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加した。
天正10年(1582年)の信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。姫路城主時代の秀吉に仕えていた天正6年(1578年)の約1000石からはじまり、同12年(1584年)に2000石加増、同13年(1585年)に2万3500石、同14年(1586年)には6万石と着々と知行を増やし、文禄4年(1595年)には讃岐国17万1,800石を与えられた。これに先立ち、讃岐の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした十河存保の嫡男千松丸を預かっていたが、その遺領2万石を横領するため甥の大塚采女に命じて毒殺させたと伝わる。その後も、十河氏復活の芽を摘むため三好氏に連なる者を徹底的に弾圧したことで知られる。秀吉の晩年には、中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正は東軍に与し、親正は在国していたが西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。理由として西軍決起時に在坂していたため西軍に付かざるを得なかった、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう配慮した、などの説がある。
戦後に剃髪し、高野山に入った。西軍に与した責任を取るためとされてきたが、高野山入りは関ヶ原で戦闘が行われる前であり、東軍寄りの行動の責任を問われたためとする説もある[1]。
戦後、一正が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵された。ほどなくして讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて死去した。
脚注
外部リンク
- 弘憲寺の歴史 - 親正の菩提寺(香川県高松市)
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- ↑ 光成準治『関ヶ原前夜』NHK出版、2009年 ISBN 9784140911389 P90-92