關一
關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年9月26日 - 1935年10月26日)は、日本の社会政策学者・都市計画学者及び大阪市長等を務めた政治家である。静岡県伊豆生まれ。
生涯
旧幕臣の小学校教員の家に生まれる。1893年高等商業学校(現一橋大学)卒業。大蔵省勤務、神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)教諭や新潟市立商業学校(現新潟県立新潟商業高等学校)校長などを経て、1897年母校東京高等商業学校(上記「高等商業学校」を改称)教授となり、社会政策論及びその延長として都市計画論を専門とした。1910年法学博士。
「シティプランニング」という外来語に対して「都市計画」という訳をあて、最初にその用語を使ったとも言われる。關は1914年から戸田海市(京都帝国大学教授)及び小山健三(東京高等商業学校校長)の紹介・斡旋で池上四郎市長の補佐として大阪市助役に招かれ、1923年に第7代大阪市長となる。
市長としての關は、市営公園や公営住宅の整備、御堂筋の拡幅、地下鉄の建設(現大阪市営地下鉄御堂筋線)、大阪城天守閣の再建、大阪商科大学(現大阪市立大学)の開設など様々な都市政策を実行した。これらの実現によって大大阪時代は關市政時代に全盛期を迎えることとなった。
また、いわゆる大阪アルカリ事件においては、科学的調査に基づいて、あえて行政側の責任を認めた。この事件は裁判となり、加害企業側が敗訴している。さらに、裁判に並行して積極的に被害者の救済策に乗り出すなど、環境政策の先駆者としての一面も持つ。
1934年7月3日から貴族院議員。
その後、室戸台風による災害復旧を陣頭指揮する最中、1935年大阪市天王寺区の自宅でチフスのため死去。享年63。のち、大阪市政への功績がたたえられ、中之島にその銅像が建立された(現存)。
なお、孫の關淳一は2003年12月19日から2007年12月18日まで第17代大阪市長を務めた。
著書
社会政策及び都市に関する多くの著書を残している。
- 主著『労働者保護法論』(1910年)
関連文献
- 芝村篤樹『関一-都市思想のパイオニア 』(松籟社、1989年 ASIN 4879841021 )
- 藤井秀登『交通論の祖型-関一研究』(八朔社、2000年)
- ジェフリー・E・ヘインズ 宮本憲一監訳『主体としての都市-関一と近代大阪の再構築』(勁草書房、2007年)
外部リンク
- 関一|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴