アリギバ
テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:基礎情報 中国君主 アリギバ(モンゴル語:テンプレート:MongolUnicode Razibaγ、テンプレート:Lang-bo Ra khyi phag、 1320年? - 1328年11月14日?)は、モンゴル帝国(元)の第11代皇帝(大ハーン)。漢字表記は阿里吉八、阿剌吉八、阿速吉八など。読みはアリギバ(中国語)、ラジバグ(モンゴル語)、ラキパク(チベット語)。
第10代の泰定帝イェスン・テムルを継いで即位したため、本来であれば第11代ハーンであるが、即位直前のクーデターにより擁立された対立ハーンのトク・テムルに敗れて廃されたため、一般に歴代には数えられない。漢風の廟号も持たないが、2ヶ月間の短い治世に天順の元号を立てたので天順帝と呼ばれることもある。
生涯
傍系からハーンに即位したイェスン・テムルの長男。長らくハーンの夫人を輩出してきた名門姻族コンギラト氏のバブカンを母とし、1324年に幼くして皇太子に立てられた [1]。1328年旧暦7月、まだ36歳の若さであったイェスン・テムルが病気により上都で崩御すると、イェスン・テムルの寵臣で中書左丞相ダウラト・シャーによって後継者に擁立され、9月に上都でハーンに即位した。
しかしイェスン・テムルの急死は、仁宗アユルバルワダの治世から不遇をかこっていたことに対し不満を募らせていた武宗カイシャン派の軍閥たちの決起を促した[2]。旧暦8月、もう一つの都である大都に駐留していたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルは反乱を起こして大都の政府機関を占拠し、カイシャンの遺児の擁立を呼びかけた。ダウラト・シャーはカマラの孫・王禅を平章政事、タシ・テムルを軍の司令官としてエル・テムルとの交戦の準備を進める[3]。
アリギバの即位と同じ9月、湖北の江陵にいたカイシャンの次男懐王トク・テムルが大都に迎え入れられ、アリギバの対立ハーンに即位した。アリギバを擁立する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は崩壊した。
10月になると内モンゴル東部を領する斉王オロク・テムル(チンギス・カンの弟ジョチ・カサルの子孫)が大都側について上都を囲み、アリギバとダウラト・シャーは完全に孤立した。ダウラト・シャーら上都軍の主だった人物は大都側に投降し、処刑された。アリギバも混乱の最中に没したが、どのような最期を遂げたかは不明である[3][4]。
イェスン・テムルの死後に起こったこれら一連のハーン位争いは、トク・テムルの立てた元号をとって「天暦の内乱」と呼ばれる。アリギバの死を知った上都側の支持者たちはエル・テムルに降伏するが[4]、天暦の内乱は終結を迎えず、トク・テムルとその兄コシラの間で帝位を巡る対立が続くこととなる。
元号
- 天順(1328年旧暦9月- 1328年旧暦10月)
脚注
参考文献
- 井ノ崎隆興「天順帝(元)」『アジア歴史事典』6巻収録(平凡社, 1960年)
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年6月)
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)