神の抵抗軍
テンプレート:Infobox War Faction 神の抵抗軍(かみのていこうぐん、Lord's Resistance Army[1]: 略称 LRA)は、ウガンダの反政府武装勢力。
概要
1987年にジョゼフ・コニーによって結成された。主にコンゴ民主共和国東部、ウガンダの北部地域と南スーダンの一部で活動しており、ウガンダ政府軍との紛争は、アフリカで進行中の長期紛争の1つである。コニーは自らを霊媒であると主張し、十戒とアチョリの伝統に基づく国家建設を掲げている[2]。
最近ではウガンダ軍の掃討によってその規模を縮小させているが、依然として住民の殺害や襲撃等を行っている。LRAによる被害の中でも子供に対する犯罪は特に深刻で、子供を拉致し、強制的に少年兵にしたり、性的奴隷にしたりして国際的な非難をあびている[3]。
歴史
背景
1986年1月アチョリ出身のティトー・オケロ大統領が南西部を支持基盤とするヨウェリ・ムセベニの国民抵抗軍(NRA)により打倒された(テンプレート:仮リンク、ルウェロ戦争)。アチョリは彼らによる伝統となっていた国軍の支配を奪われることを恐れ、またNRAが受けた残忍な対反乱作戦、特にテンプレート:仮リンク地域での虐殺[4]に対する報復を受けることを恐れた。8月までに政府軍占領下の北部で民衆反乱が起こった。
初期
テンプレート:Infobox Military Conflict テンプレート:Main 1987年1月ジョゼフ・コニーはアリス・アウマのテンプレート:仮リンク (HSM)に連なる霊媒として現れた。コニーは元テンプレート:仮リンク (UPDA) 司令官テンプレート:仮リンクから村などの一般市民を標的にしたゲリラ作戦の指示を受け、元UPDA師団を掌握した。1991年まで LRA は調達のために人々を襲撃し、短期間誘拐された村人によって略奪が実行された。いくらかの NRA部隊もまた残忍な行動で知られていた事から、LRA は少なくともアチョリ人の何割かから受動的な支持を得た[5]。
1991年3月に「北部作戦」が開始された。それは高圧的な戦術によって住民のLRAへの支持を根元から切り崩し、LRAを壊滅させることを図るものだった[6]。北部作戦の一環として和平担当相にアチョリのテンプレート:仮リンクが任命され、西エクアトリア州では弓矢で武装した地域防衛のための自警団「アロー・ボーイズ」(矢集団)をつくった。LRAは最新の兵器で武装しているので、弓矢で武装した「アロー・ボーイズ」は圧倒された。それでもコニーは矢集団の創設に怒り、彼が住民からもはや支持されていないと感じ始めた。そしてLRAは政府支持者であると看做した多数のアチョリを殺害した。政府の試みは失敗したが、結果的にアチョリの大半はLRAの反乱に反対するようになった。しかし、これは政府占領軍との根深い対立によって和らげられた。
北部作戦の失敗の後、ビゴンベ大臣はLRAと政府の代表の間で初の対面の交渉を始めた。LRAは戦闘員の恩赦を求め、彼らは降伏しないが「帰郷する」意思があると述べた。しかし、政府の姿勢はLRAの交渉者の信憑性に関する意見の相違と政治的な接近戦によって妨げられた。特に軍は、コニーがビゴンベと交渉しながらスーダン政府から支援を受けるべく交渉していたことを知り、コニーが時間稼ぎをしているだけだと感じた。1994年1月10日の第二次交渉でコニーは部隊を再編制するため6ヶ月を要求した。2月までに交渉の様子は益々トゲトゲしいものとなり、2月2日に LRA は NRA が自分たちを嵌めようとしていると宣言して交渉から離脱した。4日後にムセヴェニ大統領は7日後を最終期限として LRA掃討を再開すると発表した[5]。この最後通告でビゴンベの交渉は中断された。
国際紛争化
テンプレート:Main 1994年2月6日にムセヴェニが最後通告を発して2週間後、LRAの兵士が北部国境を越え南部スーダンでハルツーム政府の用意した訓練基地で活動していると報告された[5]。スーダン政府の支援はウガンダ政府のスーダン人民解放軍への支援の報復であるとされた。また、アチョリがもはやムセベニ政権に協力していると確信したコニーは増強された軍事力で民間人を標的とした攻撃を強めた。切断(特に耳、唇、鼻を切り落すこと)は当り前になった。そして、1994年にはこどもや青年の最初の大規模な拉致が行われた。
これらのうち最も有名なのは1996年に139人の女生徒が誘拐されたテンプレート:仮リンクである。大部分のLRAの戦闘員は誘拐された子供達なので、LRAに対する軍事攻勢は「犠牲者の虐殺」とも考えられている。このように誘拐された若い反抗者が残忍な行為の犠牲者であり犯人であるこの状況の道徳的な曖昧さは、この紛争を理解する為には不可欠である。
1996年から始められた政府の「保護村」の創設で、特に住民が「保護キャンプ」の中でさえLRAに攻撃され続けるようになり、多くのアチョリが政府への敵対的な態度を深めた。キャンプは混雑し不衛生で生活するには惨めな場所である[7]。一方で1997年にスーダンの民族イスラム戦線政権は、強硬な姿勢を後退させ始めた。
ガランバ攻勢
第二次コンゴ戦争以降ウガンダとコンゴの政府間の関係は険悪化していたが、2008年12月には、コンゴ民主軍、ウガンダ軍、南スーダン自治政府軍(SPLA、現・南スーダン軍)共同のLRA掃討作戦「ライトニング・サンダー」(2008年12月14日 - 2009年3月15日)が行われた。[8]。この作戦にはアメリカも支援を行った。アメリカは、その後、2009年にLRA非武装・北ウガンダ再建法案(Lord's Resistance Army Disarmament and Northern Uganda Recovery Act)を可決。
2009年、コンゴ民主共和国東部州 (コンゴ)en:Haut-Uele Districtのテンプレート:仮リンクで神の抵抗軍によるテンプレート:仮リンク(12月14日 - 12月17日)が起こった。
2011年10月には、約100名の戦闘部隊をウガンダに派遣した後、南スーダンや中央アフリカ、コンゴ民主共和国の賛同を得ながら各国に展開し、指導者や幹部の捕捉を支援すると表明している[9]。
2012年5月13日、ウガンダ軍は掃討作戦の中で、神の抵抗軍の5人の最高幹部の1人であるアチェラム司令官を拘束した[10]。
戦争犯罪
国際刑事裁判所の引用する情報によると、1980年代後半からの内戦でLRAによって拉致された子供は20,000人以上にのぼり、LRAの戦闘員の85%は11歳から15歳の拉致されてきた子供たちである。彼らは、反政府運動への加入の儀式として行われる殺人・手足の切断を含む非人道的行為、重労働や略奪、放火、市民の殺害、子供の拉致などを強いられている。女の子の場合はLRA指導者の使用人として扱われ、長時間にわたる家事労働を強いられたり、性的に搾取されて、望まない妊娠や性病感染の危険にさらされている。この様子はドキュメンタリー映画『インビジブル・チルドレン』で扱われた。
ウガンダのムセヴェニ大統領は、このような事態に終止符を打つため、LRAの幹部を処罰すべく、2003年12月に国際刑事裁判所の検察官に事態を付託、捜査を要請した。これを受け、国際刑事裁判所の主任検察官は2004年1月29日、予備捜査を開始することを発表、2004年6月23日に公式に捜査を開始したと発表した。2005年10月5日、国際刑事裁判所は、ジョセフ・コニーを含む5人のLRA幹部の国際逮捕状を発行した。
2008年12月30日キリスト教系国際慈善団体カリタス(本部ヴァチカン)は30日、コンゴ民主共和国(旧ザイール)北部で先週のクリスマス期間中、LRAが住民約480人を殺害したとする声明を出した。
声明によれば、スーダン国境沿いにあるファラジェで25、26の両日、教会などがLRA部隊に襲われ、約150人が死亡。このほか、少なくとも4地域でも同様の襲撃があり、計336人が殺害された。避難民は6500人に上り、拉致された子供もいるという。
2010年3月27日国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウオッチは、2009年末、少なくとも民間人321人を殺害、女性ら250人を拉致したと発表[11]。連れ去られた者には少なくとも子供80人が含まれる。報告書によると、この虐殺が起きたのは昨年12月14日から同17日までで、少なくとも10カ所の村落を襲撃。斧やなた、大型の木製棒などで惨殺したとの事。犠牲者には3歳の女児もいる。
被害から逃れた村民によると、拉致された子供は、命令に従わない子供を殺害するよう強制されているともいう。神の抵抗軍による23年間の武装闘争の中で、この虐殺は最悪規模と非難。数カ月も表面化しなかったことについて同国、ウガンダ両政府の責任にも言及している。
同時に、コンゴ民主共和国北東部に展開する国連平和維持軍約1000人による住民保護は不十分な態勢にあると指摘している。同国政府は「神の抵抗軍は国内の治安維持で重大な脅威でない」と主張していた。
画像
- Water Lebuje camp, Uganda.jpg
難民キャンプで、水を汲む避難民
- Guard in Labuje IDP camp, Uganda.jpg
難民キャンプを守る兵士
- Market Lebuje camp, Uganda.jpg
難民キャンプの露店
- Uganda night commuter - single child.jpg
安全を確保するため、子供は夜毎に大きな街や難民キャンプに移動する。彼らは夜間通勤者(Night Commuter)と呼ばれる。
脚註
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テンプレート:UG-stub
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- ↑ LRA はこれまでに複数の異なる名称で知られる。Lakwena Part Two(第二ラクウェナ)、Lord's Army(主の軍、1987年 - 1988年)、Uganda Peoples' Democratic Christian Army(ウガンダ人民民主キリスト教軍、UPDCA, 1988年 - 1992年)1992年以降、神の抵抗運動/軍 (Lord's Resistance Movement/Army, LRM/A, LRA/M) と名乗るようになった。
- ↑ "Interview with Vincent Otti, LRA second in command" and " A leadership based on claims of divine revelations" in IRIN In Depth, June 2007
- ↑ ウガンダ反政府勢力がコンゴで子ども90人を誘拐、ユニセフが即時解放を要請(AFP.BB.News.2008年9月23日)
- ↑ Doom, R. and K. Vlassenroot. "Kony's message: a new koine? The Lord's Resistance Army in Northern Uganda," African Affairs 98 (390), p. 9
- ↑ 5.0 5.1 5.2 O’Kadameri, Billie. "LRA / Government negotiations 1993-94" in Okello Lucima, ed., Accord magazine: Protracted conflict, elusive peace: Initiatives to end the violence in northern Uganda, 2002.
- ↑ Gersony, Robert. The Anguish of Northern Uganda: Results of a Field-based Assessment of the Civil Conflicts in Northern Uganda (PDF), US Embassy Kampala, March 1997, and Amnesty International, Human rights violations by the National Resistance Army, December 1991.
- ↑ Dolan, Chris. What do you remember? A rough guide to the war in Northern Uganda 1986-2000 (PDF), COPE Working Paper No. 33, 2000, p. 19, and Weeks, Willard. Pushing the Envelope: Moving Beyond 'Protected Villages' in Northern Uganda (PDF), for UNOCHA Kampala, March 2002, p. 4
- ↑ 海外安全ホームページ、日本国外務省、2009年12月末現在。
- ↑ ウガンダに米軍兵士を派遣、武装勢力指導者の捕そく支援(CNN.co.jp.2011.10.15)2011年10月閲覧
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite webテンプレート:リンク切れ