町田久成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:基礎情報 武士 町田 久成(まちだ ひさなり/ひさすみ)は、幕末の薩摩藩士で明治時代の士族。島津氏庶流。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)[1]。小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。
生涯
慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。
略歴
- 町田久長(伊集院郷石谷[2]領主)と母(国(汲)子、吉利郷[3]領主小松清穆の長女)の長男として鹿児島城下千石馬場通りの町田屋敷にて出生。
- 19歳の時江戸の「昌平坂学問所」にて就学、同時に有馬新七と出会う。
- 1859年、江戸就学を終え薩摩へ帰郷。御小姓組番頭となる。
- 1863年、大目付に取り立てられる。 「薩英戦争」に本陣警護隊長として参戦。部下に東郷平八郎
- 1864年、「薩摩藩開成所」設立に参加。小松帯刀(家老)、町田久成(大目付・学頭)、大久保一蔵(側役)連名による。
- 1864年、「禁門の変(京都)」に六郷隊(兵士約600人)の隊長として参戦。
- 1865年、1月薩摩藩英国留学生15名を率いて英国留学に出発[4]。 10月よりロンドン大学ユニバーシティカレッジ法文学部の聴講生となる。
- 1867年、2月パリ万国博覧会に参加。6月、英国より帰国すると中井弘と共に上京し大久保利通、西郷隆盛らの武力討幕方針に反対する。
- 1868年、1月参与職外国事務掛となる(同僚に五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨等)。
- その後、参与職外国官判事・長崎裁判所判事・九州鎮撫使参謀・外国事務局判事・外国官判事・外務大丞(外務大臣の直下)
- 1869年、7月英国第2王子エディンバラ公アルフレッドの接待責任者を務める。9月、天長節の参賀に無断欠席したため謹慎処分を受ける。[5]
- 1870年、9月大学大丞に異動。大学南校物産局勤務の時、田中芳男(幕府使節としてパリ万博参加)と再会。「日本初の博物館創設計画」の始まり。
- 1871年、5月西洋医学所薬草園にて「物産会(博覧会)」を開催。大学は文部省へと変わると文部省博物局を設置し、「古器旧物保存方」および「集古館」建設を提言。
- 1872年、3月湯島聖堂にて「勧業博覧会」を開催しウィーン万博への出品物を披露。「名古屋城等保存ノ儀」を建議[6]。5月壬申検査を主導。
- 1873年、4月「内山下町博物館」開館。
- 1874年、フィラデルフィア万博事務局長となる。
- 1875年、「浅草文庫」設置。
- 1880年、4月博物館主導で上野公園内で「観古美術会」開催
- 1882年、3月 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任
- 同年10月 東京帝室博物館長を辞職
- 1883年、円城寺法明院桜井敬徳師より奈良東大寺戒壇院において円頓菩薩戒を授けられる。10月農商省博物局勤務。杉孫七郎の要請により博物館の宮内庁への移管手続きを手伝う。
- 1885年、3月元老院議官となる。 岡倉天心、フェノロサ、ビゲローが町田宅で受戒。
- 1889年、12月元老院議官を辞職
- 1890年 三井寺光浄院住職となる
- 1893年 ビゲローとともにシカゴ万博、万国宗教会議に参加
- 1897年、9月15日療養先の寛永寺明王院で死去
- 1912年、国立博物館裏庭に井上馨、杉孫七郎らの提案で顕彰碑が建立された。碑文は重野安繹が作成した。
人物
- ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。
- 町田は美術品の中でも特に和楽器に関心を持っていた。ある時祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。
- 音楽にも造詣が深く、山井景順に師事して横笛を学んだ。内山下町博物館の時代には舞楽の会や管弦の会を宮内省の宮中の令人たちを招いて定期的に展示物の和楽器を使って開催していたほか、個人でも隅田川にて舟遊合奏会を開催するなどしていた。
- 井上馨が町田に伊万里の土を使ってフランスの陶工に焼かせた花瓶を見せたところ町田は「土は日本のものだが焼き方は日本や中国のものではないので自分にはわからない」と答えた。後日九鬼隆一にも同じことを聞いたところ伊万里焼だと答えたので、井上は町田が分からないと答えたのは確かに理解している証拠だとして九鬼の鑑識は町田には遥かに及ばないと言ったという。
- 明治天皇の銀婚式に杉に参加するように請われたところこの時既に出家していた町田は貧しい姿をして宮門に参上した。警備のものが不審者と思いこれを止めたところ町田はその通りである。乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず着た次第なりと答え警備の者の言うとおり引き返そうとするところで連絡を受けた杉孫七郎が町田の悪戯には困ると言って通すように言ったという。
- ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ。好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被ると答えた。
- ある日知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。町田がその鑑定書をなんに使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、それは面白い。乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。それではあなたはいかほど布施をするのかと併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。町田はそれに対して2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやると答えたので聞いていたものらは大笑いしたという。
脚注
参考文献
- 「町田久成」(井上良吉編『薩藩画人伝備考』1915年序)
- 「町田久成」(大塚武松編輯『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1927年10月)
- 日本史籍協会編『百官履歴 1』東京大学出版会、1973年7月
- 日本史籍協会編『百官履歴 1』北泉社、1997年1月、ISBN 4-938424-71-1
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年9月、ISBN 4-642-03114-6
- 関秀夫著『博物館の誕生 : 町田久成と東京帝室博物館』岩波書店、2005年6月、ISBN 4-00-430953-0
関連文献
- 後藤純郎「博物局書籍館長、町田久成 : その宗教観を中心として」(『教育学雑誌』第10号、日本大学教育学会、1976年3月)
- 一新朋秀「町田久成の生涯と博物館」(『博物館学年報』第18号、同志社大学博物館学芸員課程、1986年12月/第19号、1987年12月/第22号、1990年12月/第27号、1995年12月)
- 神田孝夫「石谷・町田久成をめぐって」(『Lotus』第8号、日本フェノロサ学会、1988年4月)
- 滋野敬淳「町田久成和尚小話」(『Lotus』第17号、日本フェノロサ学会、1997年3月)
- 大島朋剛「町田久成について」(『Lotus』第17号、日本フェノロサ学会、1997年3月)
- 門田明「町田久成略伝」(『鹿児島県立短期大学紀要』人文・社会科学篇第48号、1997年12月)
- 石山洋「本邦における博物館および図書館の創設期 : 町田久成の国立総合博物館設立活動をめぐって」(『東海大学紀要』課程資格教育センター第7号、1998年3月)
- 大島朋剛「博物館退官後における町田久成の事績 : 桜井敬徳による書簡の検討を中心に」(『Lotus』第26号、日本フェノロサ学会、2006年3月)
- 井上洋一「町田久成」(青木豊、矢島国雄編『博物館学人物史 上』雄山閣、2010年7月、ISBN 4639021194)
外部リンク
- 台東区の文化財 町田久成墓(台東区生涯学習センター)
- ↑ 村山知一著「近世・禰寝文書」参照。同書によると嘉永元年生まれ。町田久長四男。慶応2年に小松家に養子入りし、明治3年10月に小松家の当主となる。明治5年9月に隠居して小松家を出てからの氏名は不詳
- ↑ 現在の鹿児島県鹿児島市石谷町
- ↑ 現在の日置市日吉町吉利にあたる
- ↑ 「幕末・維新期の対外関係略年表」(名古屋大学附属図書館)
- ↑ 『太政類典』外編・明治二年~明治三年・治罪法・行刑・参賀・失儀「松岡大学大丞等四名謹慎ノ件」および「町田外務大丞謹慎ノ件」「
- ↑ 木下直之「古写真の中の日本」(國學院大學学術フロンティア事業実行委員会編『画像資料の考古学』國學院大學画像資料研究会、2000年12月)