カール・ライネッケ
テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 カール・ライネッケ(カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824年6月23日 アルトナ - 1910年3月10日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者[1]。
略歴
音楽理論や音楽教育書の著作を出していた高名な音楽教育者の父親ルドルフ(ヨハン・ペーター・ルドルフ・ライネッケ Johann Peter Rudolph Reinecke, 1795年11月22日 ハンブルク - 1883年8月14日 テンプレート:仮リンク)に学ぶ[1]。
- 7歳までに作曲を始め、12歳でピアニストとして初めて公開演奏を行う。
- 1843年(19歳) 北欧に演奏旅行を行い、引き続きライプツィヒでメンデルスゾーンやテンプレート:要出典範囲。
- 1846年(22歳) デンマークにて宮廷ピアニスト。
- 1851年(27歳) フランツ・リストの娘達、ブランディーネとコジマにピアノのレッスンをする。のち、作曲家のフェルディナント・ヒラーに乞われてケルン音楽院で教える[2]。
- 1860年(36歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長、音楽院の教授に就任。
- 1869年 ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を、この年の2月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して初演する。
- 1875年 王立プロイセン芸術アカデミーの会員となる[1]。
- 1897年 ライプツィヒ音楽院の院長に就任[1]。
- 1902年 公職から引退する[1]。
ライプツィヒ音楽院での門下生に、ブルッフ、グリーグ、スヴェンセン、シンディング、サリヴァン、ヤナーチェク、アルベニス、ワインガルトナー、リーマンらがいる[1]。
作品
初期にはメンデルスゾーンやシューマン、ショパンの影響が顕著であったが、のちにはブラームス作品のもつ綿密さや堅固な構成力が加わった[注 1]。公職から引退後も死の間際まで作曲活動を続けていたため、創作数は出版作品だけで300曲を超え、未出版の作品を数えると千曲以上ともいわれる。様々な分野の曲を書いているが、魅力的な旋律と創意に富む数多くのピアノ曲で殊に有名であった。また、室内楽曲も優れており、フルートソナタ「ウンディーネ」は彼の作品中最も頻繁に演奏される曲である。一方で、「マンフレッド王 (König Manfred)」などのオペラでは成功しなかった[1]。
保守的な音楽観を持ち[1]、名人芸もほとんど用いなかった為、死後は多くの作品が演奏家のレパートリーから消えることとなった。
教育目的で書かれた作品には「ミニチュアソナタ」や「左手の為のソナタ」など創意工夫に富んだ物が多く、今日の教育に於いても使用可能である。
彼が師事したシューマンの作品で合唱曲として名高い「流浪の民」のフルオーケストラ版編曲も手がけた。こちらも長らく埋もれていたが、2010年10月13日、ライプツィヒ大学入学式に於いて同大学管弦楽団・合唱団によって現ゲヴァントハウス大ホールにて蘇演がなされた。
交響曲
- 交響曲第1番 イ長調 Op.79 (1858年)
- 交響曲第2番 ハ短調 Op.134 (1874年)
- 交響曲第3番 ト短調 Op.227 (1895年)
協奏曲
- ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182 (1884年)
- ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.72 (1860年)
- ピアノ協奏曲第2番 ホ短調 Op.120 (1872年)
- ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.144 (1877年)
- ピアノ協奏曲第4番 ロ短調 Op.254 (1901年)
- チェロ協奏曲 ニ短調 Op.82 (1864年)
- ヴァイオリン協奏曲 ト短調 Op.141 (1876年)
- フルート協奏曲 ニ長調 Op.283 (1908年)
室内楽曲
- フルートソナタ ホ短調 「ウンディーネ」 Op.167(1881年)
- 弦楽三重奏曲 ハ短調 Op.249
ピアノ曲
- アンダンテと変奏曲(2台) 変ホ長調 Op.6 (1844年)
- 3つのソナチネ Op.47 (1854年)
- ゆりかごから墓場まで Op.202 (1888年)
- 左手のためのピアノソナタ ハ短調 Op.179 (1884年)
脚注
出典
外部リンク
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