上御霊神社
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。
祭神
現在の祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)は後年追加された。
- 崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
- 井上大皇后(光仁天皇の皇后)
- 他戸親王(光仁天皇の皇子)
- 藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
- 橘大夫(橘逸勢)
- 文大夫(文屋宮田麿)
- 火雷神(以上六柱の荒魂。)
- 吉備大臣(吉備真備)
祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成[1])、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある[2]。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
歴史
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
なお、延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。
- Kamigoryo Shrine140516NI1.JPG
西の鳥居
- Kamigoryo Shrine140516NI3.JPG
楼門(西門)
- Kamigoryo Shrine140516NI4.JPG
絵馬所に置かれた3基の神輿
祭事
例祭の御霊祭は明治までは8月18日(旧暦)に行われていたが、現在では5月18日(新暦)に行われている。御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。
交通
脚注
関連項目
外部リンク
- 上御霊神社(京都府神社庁)
- 末廣神輿 上御霊神社