摂津 (標的艦)
戦艦「摂津」 | |
艦歴 | |
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発注 | 1907年に呉海軍造船所に発注。 |
起工 | 1909年1月18日 |
進水 | 1911年3月30日 |
就役 | 1912年7月1日 |
その後 | 1945年7月24日戦没 |
除籍 | 1945年11月20日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:21,443 t 標的艦時:20,650t |
全長 | 160.6m |
全幅 | 25.6 m |
吃水 | 8.5 m |
機関 | 宮原式石炭・重油混焼水管缶16基 +ブラウン・カーチス式直結タービン2基2軸推進 |
最大出力 | 25,000hp |
最大速力 | 20ノット(37 km/h) 17.4ノット(標的艦時) |
燃料 | 石炭:2,300トン 重油:400トン |
乗員 | 986名 |
兵装 | アームストロング 1905年型 30.5cm(50口径)連装砲2基4門 アームストロング 1904年型 30.5cm(45口径)連装砲4基8門 エルジック 1908年型 15.2cm(45口径)単装速射砲10基10門 エルジック 1908年型 12.0cm(40口径)単装速射砲8基8門 エルジック 1894年型 8.0cm(40口径)単装速射砲8基8門 1902年型 8.0cm(25口径)単装砲4基4門 45cm魚雷発射管5門 |
摂津(せっつ)は、日本海軍の戦艦。河内型戦艦の2番艦である。後に標的艦となった。駆逐艦「矢風」によって遠隔操作される無人艦というのが一般的に知られている。艦名は旧国名「摂津国」にちなんで命名された[1]。日本海軍の艦船としては「摂津艦」に続いて2代目。
目次
概要
「戦艦」摂津
1909年1月18日起工。1911年3月30日に進水、1912年7月1日に竣工した。建造は呉工廠。竣工時、摂津国一宮の住吉大社より、同神社の約1/40模型が「摂津」に寄贈された[2]。
本艦は、30センチ砲連装6基12門と砲力は強力に見える。しかし、実際は主砲を亀甲型に配置したため、右、又は左舷に砲を撃つとき反対舷の砲が使用できず、そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と射撃指揮に問題がでるものであった(東郷平八郎が「前後の砲はより強化すべし」と言ってそのようにさせたという)。戦闘への参加は無かったが、第一次世界大戦にも参加している。
「標的艦」摂津
1923年10月1日のワシントン海軍軍縮条約により、戦艦「陸奥」を保有する代わりに、摂津は退役させられることとなった。主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃し、標的艦に改装された。なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。標的艦となった当初の本艦は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。
1923年、ドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したと伝えられると、日本海軍もそれを研究し、1928年に無人操縦装置の試作機完成。実験の上摂津に搭載することとなったが、この時は本格採用されず、すぐに予備艦となり呉軍港に長らく係留された。
爆撃標的艦への改造
ワシントン軍縮条約失効後の1937年、本格的な無人操縦装置を取り付け、摂津自身を爆撃訓練の標的とする標的艦に改造された。すなわち駆逐艦矢風を操縦船とし、10キロ演習用爆弾の高度4000メートルからの投下に耐えられるよう甲板・艦橋・煙突等の防御を強化した。速力が求められないため第2ボイラーを休止し、3本あった煙突のうち第2煙突を撤去した。残った2つのボイラーを換装し少しでも速力低下を防いだが、速力は20ノットから16ノットに低下した。
1940年の改造
その後1939年から1940年にかけて重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように防御がさらに強化された。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの5センチ演習砲による砲撃などに耐えられるよう、軍縮条約によって取り外していた側装甲を復活し、甲板の防御をさらに強化した。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを換装し第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう第一煙突の高さが短縮された。
この強化の結果、安全距離以内に近づいて艦船の砲撃や爆撃訓練を行うことが可能になった。この改装で特に航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、大戦初期の戦果向上の一助となる。(摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の「日向」「伊勢」を無事生還させた松田千秋が特に有名)
なお摂津及び「矢風」を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。
その後
開戦後も(任務の性格から当然ではあるが)特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごしたが、1945年7月24日アメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破着底、そのまま終戦を迎える。1945年11月20日除籍。
無人操縦装置の原理
各電信によって稼働するスイッチを持ち、発信する電波を、800・930・1100・1300ヘルツの4種類(それぞれ、W・X・Y・Zという符号が付いている)とし、その内の3種を組み合わせ(たとえば、ZWWと発信すれば右10度変針、YXZで前進14ノットなど)が一命令となる。信号の組み合わせは、最大64通りとなるが、うち37通りに実際の命令が割り当てられた。命令により速力や進路の変更が行なわれる。
ただし本艦の操縦は全て無人というわけではなく、艦船による砲撃訓練時のみが無人で、訓練海域までは艦橋にて操艦し、到着すると僚艦である駆逐艦矢風に全員移動しそこからコントロールされる。航空機の爆撃訓練の際は、艦内の安全防御区画で待機し、一般航行時や出入港時は乗員がそのまま乗り込み操艦した。
艦長
- 艦長
- 田中盛秀 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日 *兼呉海軍工廠艤装員(- 1912年7月1日)
- 山中柴吉 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 木村剛 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 永田泰次郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 川原袈裟太郎 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 本田親民 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 犬塚助次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
- 内田虎三郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年6月10日
- 古川弘 大佐:1919年6月10日 - 11月20日
- 今泉哲太郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年6月3日
- 横尾尚 大佐:1920年6月3日 - 11月20日
- 武光一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
- 小山田繁蔵 大佐:1921年11月20日 - 1922年11月10日
- (兼)松平保男 大佐:1922年11月10日 - 1923年1月20日
- 武富咸一 大佐:1923年1月20日 - 10月1日
- 特務艦長
- 武富咸一 大佐:1923年10月1日 - 11月20日
- 松本匠 大佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
- 右田熊五郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年4月20日
- 瀬崎仁平 大佐:1926年12月1日 - 1927年9月28日
- 千谷定衛 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 水崎正次郎 大佐:1935年4月18日 - 11月15日
- 左近允尚正 大佐:1936年12月1日 - 1938年7月20日
- 鈴木長蔵 大佐:1938年7月20日 - 1939年11月15日
- (兼)原田覚 大佐:1939年11月15日 - 1940年3月10日
- 小暮軍治 大佐:1940年3月10日 - 11月1日
- (兼)伊崎俊二 大佐:1940年11月1日 - 11月28日
- 森徳治 大佐:1940年11月28日 - 1941年9月1日
- 松田千秋 大佐:1941年9月1日 - 1942年2月10日
- 石井敬之 大佐:1942年2月10日 - 5月20日
- 島本久五郎 大佐:1942年5月20日 - 10月1日
- 長井満 大佐:1942年10月1日 - 1943年2月2日
- 長谷真三郎 大佐:1943年2月2日 - 4月12日
- 佐藤勝也 大佐:1943年4月13日 - 6月25日
- 三浦艦三 大佐:1943年6月25日 - 8月4日
- 相馬信四郎 大佐:1943年8月4日 - 1944年8月10日
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.テンプレート:Cite book
- 帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37) 学習研究社 ISBN 9784056027808 P22-25 「標的艦 摂津」三木原慧一