水野重良

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水野 重良(みずの しげよし、慶長元年(1596年)- 寛文8年10月28日1668年12月2日))は、紀伊新宮藩の第2代当主。

紀州藩附家老初代当主・水野重央の長男。母は安部信盛の養妹(実は水野信元の娘)。正室は山川藩主・水野忠元の娘。子に重上(長男)、良全(次男)、重孟(三男)、重時(四男)、三宅良寛(五男)、娘(大関増周室のち八木高豊)継室)、娘(一色直房正室)、尼となって鎌倉高松寺を開山した日隆尼日祐尼などの娘多数。

家康より命じられて秀忠付き、次いで家光付きの旗本として2,000石の禄であったが、元和7年(1621年)11月に父が死去したとき、本来ならばすぐに父の跡を継ぐはずであったが、他の水野氏が諸侯として正式に藩主として認められているのに対し、自分だけは紀州藩の陪臣の立場から藩主として認められていなかったことに不満を抱いて、すぐには家督を継がず弟に跡を継がせようとした。幕府に直臣として認めてもらうように運動したという。しかしこれは認められず秀忠や家光の説得によって、元和9年(1623年)6月に約2年の空位の後に家督を継いだ[1]

万治元年(1658年)9月25日に子の重上に家督を譲って隠居し、寛文8年(1668年)10月28日に死去した。法号は本廣院殿真休常栄日輔大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。

脚注

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  1. 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』2006年、清文堂