李密 (隋)
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李 密(り みつ、582年(開皇2年) - 618年(武徳元年))は、中国の隋末に割拠した群雄の一人である。
遼東郡襄平県の出身。字は玄邃、法主。曽祖父は西魏の柱国の李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が父である。つまり、武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。
若くして大人の風があったとされる。煬帝に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『漢書』の項羽伝を架けて読んだという故事が伝えられる。
613年(大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡(河南省滑県)で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年(義寧元年)、興洛倉(河南省鞏県)を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東省から江蘇省までを勢力下に収めた。
618年(義寧2年)、宇文化及が煬帝を殺害して秦王を擁立して江都に拠り、洛陽では王世充らによって恭帝侗が擁立され、長安に拠る李淵が恭帝侑の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている[1]。だが、同じく禅譲を狙っていた王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。
唐朝からは光禄卿、邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。
李密を主人公にした文芸作品
- 狩野あざみ『隋唐陽炎賦』(徳間文庫 亜州黄竜伝奇5 特別篇) ISBN 4198501181
脚注
- ↑ 前島佳孝「隋末李密の東都受官に関する一試論」(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))