日精
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日精(にっせい、慶長5年(1600年) - 天和3年11月5日(1683年12月22日))は、日蓮正宗総本山大石寺第17世法主。江戸時代初期の大石寺の復興の賢上人と言われ、大石寺は日精の頃に大きな発展を遂げている。
略歴
- 寛永10年(1633年)、18世日盈に法を付嘱した。
- 寛永12年(1635年)10月6日、『日興筆安国論問答』を書写す。
- 寛永14年(1637年)春、日精再往。敬台院日詔の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる。
- 寛永15年(1638年)、大石寺の中門(二天門)を建立し、総門(黒門)を再建す。江戸下谷常在寺を再建す。
- 正保2年(1645年)、19世日舜に法を付嘱して隠棲した。
- 明暦2年(1656年)、御書要文2巻を編す。
- 明暦3年(1657年)5月8日、『富士門家中見聞』(家中抄)中巻を草す。
- 万治3年(1660年)4月8日、大石寺客殿安置日興御影を造立す。大石寺客殿安置大聖人御影を造立す。
- 寛文2年(1662年)12月18日、江戸下谷常在寺にて『富士門家中見聞』(家中抄)3巻を著す。
- 寛文9年(1669年)、寺社奉行の召により京本圀寺と越後本成寺の本末争いを決着す。
- 延宝8年(1680年)9月29日、甲斐杉山有明寺安置日有御影を造立す。
- 天和3年(1683年)11月5日、84歳で遷化した。
富士門家中見聞
『富士門家中見聞』(ふじもんけちゅうけんもん、『家中抄』(けちゅうしょう)とも)3巻(上中下)は、寛文2年(1662年)12月18日、江戸下谷(したや)の常在寺にて日精が上代歴代法主をはじめとする主な僧侶の伝記を記した書。日精の真筆が大石寺に現存しており、富士門流上古時代の貴重な歴史資料となっている。
ただし、下巻の歴代法主の伝記には日精自身の伝記は除き、第16世日就伝の次に、すでに遷化(1638年)している第18世日盈伝を記している。また、第48世日量は『続家中抄』を著し、『家中抄』で除かれた第17世日精と第19世日舜より第50世日誠までの伝記を記している。よって、『家中抄』と『続家中抄』をつなぐと、日就 - 日盈 - 日精 - 日舜という順番になり、あたかも日盈が第17世のように見え誤解を招くが、『家中抄』の「日就伝」の中に、「(日就は)江戸法詔寺に下向して直受相承を以って予(日精)に授け」とある[1]。また、『続家中抄』の「日精伝」にも、「就師(日就)江戸法詔寺に下り、金口嫡嫡の大事を以って師(日精)に完付す、盈師(日盈)病に因って湯治の為めに会津実成寺に退穏し、終に彼の地に於いて遷化したもう。之れに依って師(日精)同じく(寛永)14年の春、本山に移転し正嫡十八の嗣法となる」とある[2]。したがって正確には、第16世日就 - 第17世日精 - 第18世日盈 - 第18世日精 - 第19世日舜となるが、日盈を第17世とする文はない。
伝説
その他
脚注
引用・参考文献
- 堀米日淳編 『日蓮正宗聖典』(細井日達発行、1978年12月)
- 日精 「家中抄(上・中・下)」
- 日量 「続家中抄」
- 『日蓮正宗入門』(大石寺、2002年1月)
- 『宗旨建立と750年の法灯』(大石寺、2003年3月)