川島皇子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川島皇子(かわしまのみこ、斉明天皇3年(657年) - 持統天皇5年9月9日(691年10月6日))は、飛鳥時代の皇族。天智天皇の第2皇子。淡海朝臣・春原朝臣などの祖。河島皇子・川嶋皇子とも。
目次
生涯
斉明天皇3年(657年)、天智天皇の第2皇子として誕生。母は忍海造色夫古娘(忍海造小竜の娘)。
天武天皇8年(679年)5月6日、天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)も列席する中、草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・志貴皇子と共に一同結束を誓う「吉野の盟約」に参加した。
天武天皇10年(681年)3月、忍壁皇子らと共に帝紀及び上古諸事の編纂を命じられる。天武天皇14年(685年)正月、浄大参(四品にあたる)の位を授けられた。
朱鳥元年(686年)、親友であった大津皇子の謀反計画を朝廷に密告したことが『懐風藻』にみえる。しかし、『日本書紀』のこの事件に関する記事に皇子の名がみえないこと、また皇子に賞与などが与えられた形跡がみえないことから、史実ではないとする見方もある。
持統天皇5年(691年)9月に薨去。越智野に葬られた。
『懐風藻』によると、温厚な人柄であったらしい。
川島皇子に関する歌
『万葉集』に柿本人麻呂の挽歌が残されている。
- 川島皇子の殯宮の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女に献れる歌一首、また短歌
- 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし つまの命の たたなづく 柔膚すらを 剣刀 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
- 反歌一首
- 敷布の袖交へし君玉垂の 越智野に過ぎぬまたも逢はめやも