池間島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年3月2日 (日) 17:36時点におけるNanafa (トーク)による版 (出典の明記)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox

ファイル:Miyako ikema bridge.JPG
池間大橋(池間島から宮古島方向を望む)
ファイル:Miyakojima sky view.jpg
池間島(手前)方向から宮古島を望む

池間島(いけまじま)は、宮古島の北西1.5kmに位置し、沖縄県宮古島市平良池間に属する面積2.83km²[1]、周囲10.1km[2]である。

地理

半農半漁の島で、2005年国勢調査によると、人口は682人、332世帯が居住している。明治時代には人口が2,200人を数えたこともあった。南方には宮古島北西端の西平安名岬が望むことができ、北岸に1940年昭和15年)初点灯の池間島灯台(灯火標高41m、光達距離18海里)がある。

島周辺には「干瀬(ビジ)」と呼ばれるサンゴ礁群が散在している。特に北東約15kmには、八重干瀬と呼ばれる巨大な干瀬があり、ダイビングスポットとしても有名である。

歴史

かつては2つの島であり、島と島の間には南北に細長い海峡が走っていた。16世紀の初め頃、その北側のイーヌ・ブー(北の入り江)と呼ばれる場所に狩俣の豪族、「四島の主」が石橋を架け二つの島を行き来できるようにした。それより程なくして堆積した砂によって石橋は埋もれてしまい、二つの島はつながって池間島になり、イーヌ・ブーの南側のかつての海峡は南北に細長い入り江となった。

1934年(昭和9年)に、干拓のために入り江の入口(現在の池間小学校・池間中学校のある場所)に防潮護岸が造成され、入り江は汽水の沼地となり、「ユニムイ」湿原と呼ばれるようになった。さらに、1963年(昭和38年)から1982年(昭和57年)にかけての漁港工事によって外海との水路が完全に遮断され、「ユニムイ」湿原は淡水化した。[3][4]現在では池間湿原とも呼ばれ、キシノウエトカゲなどの稀少な生物が棲息している他、渡り鳥の飛来地としても重要である。島全体が沖縄県指定の池間鳥獣保護区に指定されている。

文化・風習

琉球時代を彷彿させる風習が近年まで残されていたため、民俗学においても注目されている。

琉球王国時代(16世紀頃から)の御嶽信仰の風習を今でも色濃く残していることで有名である。大主神社(ウハルズ御嶽)には、池間島民より選出された五人の司(祭祀儀礼を行う女性)を中心とした祭祀集団が形成されている。

元(ムトゥ)と呼ばれる氏神をまつる場所が四箇所(真謝元・マイヌヤー元・上げ升元・前里元)があり、「ミャークヅツ」という祭りを毎年、旧暦の九月に三日間執り行う。元(ムトゥ)には、男性の祭祀集団が形成されており、祖父から父・父から子の順に祭祀集団が形成されてきた。なお、各ムトゥへの入会が認められてムトゥ・ヌ・ウヤになれるのは数え55歳からである。

産業

1906年 鮫島幸兵衛が鰹釣り漁業始める。かつては遠洋漁業が盛んで、カツオ漁が有名であったが、昭和50年代に排他的経済水域が設定されたこと等により、遠洋漁業は廃れてしまった。しかし現在でも、カツオを燻製にした鰹節はこの島の特産品となっている。

引用(北海道大学 カツカツ研ニュースレター 2001年10月24日 No.6特集 沖縄―人びととカツオ・かつお節)等

公共施設

  • 宮古島市立池間小学校
  • 宮古島市立池間中学校
  • 池間郵便局

交通

名所・旧跡・観光スポット

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:宮古諸島

テンプレート:Asbox
  1. 沖縄の島面積
  2. 島のデータ(沖縄県企画部地域・離島課)
  3. ぺん遊ぺん楽 - イーヌ、ブー
  4. 池間島 池間湿原