吉野敬介
テンプレート:独自研究 テンプレート:Ambox-mini 吉野 敬介(よしの けいすけ、1966年6月25日 - )は、日本の予備校講師(古文)。東進ハイスクール客員講師(2008年 - )。元代々木ゼミナール講師(1991年 - 2007年1月)。元札幌大学客員教授(2009年4月 - 2010年3月)。
目次
人物
神奈川県鎌倉市出身。逗子開成高等学校を経て、國學院大學文学部二部文学科卒業[1]。1991年に代々木ゼミナール講師となる。授業の特徴として、雑談の時間を取ること[2]と、言葉の繰り返しが多いことが挙げられる[3]。
講師になって間もなく日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に下記の経歴を伴って定期的に出演し、全国的に有名となる。同時に、講師1年目と3年目に出版した自伝風の著書が売れ、Vシネマ化されるほどであった。その後も、1990年代はテレビのバラエティ番組[4]に出演、2000年代以降は出版活動が目立つようになる。2002年、授業中に生徒を殴り傷害容疑で書類送検された[5]。2006年、杉村太蔵のブログが自著の内容に酷似していたとして、「杉村さんは確信犯じゃないか。顔出せ」[6]と怒ったことが話題となった。
2007年1月31日付で代々木ゼミナール退職。その際参議院選挙への出馬の可能性を報道され、本人も意欲を見せていたが、結局出馬しなかった[7][8]。同年、個別指導の吉野塾を設立。自身のノウハウを伝えたアルバイト学生に指導させる方針であったため、自身は講師業から退く形となったが、2008年より東進ハイスクールで復活し、同年には芸能プロダクション(生島企画室)とも業務提携を結んだ[9](現在は解消)。他方で吉野塾での活動も継続し、士気を上げるとの方針で校舎を港区で家賃が月40万円のマンション21階に構え[10]、2009年には塾の学習方針を伝える著書も出版した。その後、2010年10月に校舎を代々木上原に移転した。移転後は2年以上にわたって「準備中」とHPに表記されていたが、2013年3月に完全紹介制に移行したとしてHPによる募集を中止した。現在はHP自体が削除されている。
講師業以外にも、自己啓発本・教育論も執筆するほか、教育評論家として教育機関での講演活動も行っており、地方公共団体主催の講演においても下記の経歴が称されている[11]。個人ブログも開設しているところ、講演・公開授業ではほぼ毎回大成功に終わったなどの内容になっており、これらは大筋の内容を先に書いているという[12]。ネット上での自己に関する書き込みに対しては、「匿名で一方的に文句をたれるというのは、卑怯者のすることだ。(中略)一方的に文句をたれているだけのようなヤツは、相手にするつもりはない」[13]「そんなヤツらをまともに相手にしたら、自分がそいつらと同レベルに落ちてしまうだけだ」[14]との立場を貫いている。
2014年に佐村河内守が話題になった際、ジャーナリストの角田裕育によってその経歴について吉野との類似点が指摘された[15]。
著作物
著書は学習参考書と自己啓発本が中心。自己啓発本は吉野自身の経験を引き合いに出して書かれているが、そこではおおむね暴走族の特攻隊長であった高校時代を経て、卒業後に中古車販売店で働くも20歳の9月に失恋を機に大学受験を決意し、たった4か月間で国語の偏差値を25から86に上げて大学に合格。大学卒業後は代々木ゼミナール採用試験に史上最年少・最高得点で合格し、以後トップ講師として100万人以上を教えてきたという経歴が示され[16]、2014年現在も同様のプロフィールで活動している[17]。しかし、以下で示すように、経歴の内容が著書や授業中の発言ごとに変化しており、喫煙姿の写真や使った教科書・参考書などの写真は載せてあるものの、暴走族姿の写真や模試の成績表など経歴を裏付ける資料は載せていない。以下、カギ括弧内は著作からの引用。ただし算用数字に統一し、中略部分はその旨表示。
受験勉強について
- 20歳の9月20日(1986年9月20日)に受験を決意して4か月で国語の偏差値を25から86に上げて大学に合格したという肩書きであるが、著書の中には、1986年1月1日(高校卒業10か月後、大学合格の1年以上前)の日付がついた写真でこたつで勉強している姿が載っているものがある[18]。また、当初の偏差値が28と記している著作もある[19]。
- 「受験勉強を始めた時、まったく現代文がわからなかった。(中略)朝の2時間。俺は朝日新聞の社説をノートに書き写していった。(中略)4カ月間、毎日必死にそれを続けたんだ。(中略)その時のノートをいまだに捨てずに取ってあるよ」[20]と述べて、当該ノートの見開き写真を載せている著書が複数あるが、ノート左上に書いてある日付が1991年の著書[21]では昭和58年4月15日、1998年の著書[22]では昭和58年4月30日であり、いずれも吉野が高校2年生のときの日付である(いずれも日付は不鮮明だが、書き写されている内容がその日の朝日新聞の社説と一致)[23]。
- 受験勉強を始めたきっかけについて、当初は概ね、“8月、給料が30万円を超えたので別れた彼女に久々に電話したが、大学くらい行ってくれないとと言われてとりあえず大学受験を決意 → 元家庭教師に私塾を紹介してもらい通うが授業が分からない → 一度は大学を諦める → 「忘れもしない9月20日」[24]に再度電話するも彼女の態度は変わらず、専修大学に通っている現在の彼氏の話をされる → 9月21日、彼女とその彼氏が車に同乗しているところを目撃して受験を決意”[25] というものであったが、別の機会では、“9月19日、10カ月ぶりに別れた彼女に電話して給料が上がったことを告げるとやり直そうかと言われた→ 彼女曰く専修大学の彼氏とは別れたが今日は女友達と泊まるかもしれないので今からは会えないということで翌日会うことに → 9月20日、待ち合わせ時間の直前に彼女と大学生の彼氏が車に同乗しているところを目撃して受験を決意 → 同20日、元家庭教師に電話して私塾を紹介される”[26]と発言しており、日付や時系列が変化している。
- 複数の著書で、9月23日の模試では国語の偏差値が25で12月17日の全国総合模試(代ゼミの模試[26])は86で全国3位と述べられている[27]が、模試の成績表は示されておらず、そもそも1986年12月17日は平日(水曜日)であり、代々木ゼミナールで模試は開催されていない[28]。また、これ以外に、最後の国語の偏差値について旺文社の模試で92、駿台の模試[29]で87~88を取った[26]とも発言しているが、吉野が受験生だった年の旺文社と駿台の私大型全国模試は11月9日と11月16日に終了している[30]。これに対して、1991年の著書では「11月の模試では、国語が65」[31]と述べていた。
- 1日の勉強時間について、90年代、「22時間」[32]および「20時間は勉強」[33]と表現していたが、2006年の著書では「一日20時間勉強した日も少なくない」となり[34]、2008年の著書では「一日20時間近い日もあった」という表現になっている[35]。また、連続で寝なかった時間についても、86時間[32]と書かれているものと70時間[36][37]と書かれているものがある。
- 大学受験を決意したときには小学校で扱う内容のことも知らなかったことが書かれている(例「『ミナモトノヨリトモ?誰ですか、それ』『1192年?何かあったんですか』。ふざけているわけじゃなく、ほんとうに知らないのだ」[38])が、2008年の著書には「小学校のときは天才と言われていた」[39]、2009年の著書にも「小学校までオレはものすごく成績が良かった。クラスのいちばんっていえば、オレか、もしくはその藤田って、まあそういう関係だった」として小学時代には成績が良く中学受験(栄光学園と述べている[40])をしたエピソードがある[41]。
- 著書で、12月の最終模試が終わっても学力が伸びることを述べる際、自身の学力について「12月の時点で、日本史の偏差値は55。(中略)最後の模試といったって、それで終わりじゃない。そこからが勝負だ。今から思えば、もし2月に模試を受けていたら、日本史も偏差値75は超えていたはずだ」[42]と仮定に基づいて推測していたが、別の機会では「日本史なんか、最後75までいった」[43]「日本史もね75,6はいったんだよね、最後」[26]と発言するなど既成事実になっている。なお、「日本史は、安土桃山時代はあまり出ないから教科書くらいしかやらなかった」とも述べている[44]。
- 上記の12月17日の模試で国語が全国3位だったと書かれている[45]が、最近の著書では「生まれて初めて書いた小論文が全国で3番だった」[46]とも書かれている。
- 1月15日の成人式のパーティに参加せず勉強したというエピソードに関して、90年代の著書では「アキノブの家に行って、パーティのことを忘れるように、ただ勉強に打ち込んだ」[47]「15日には、オレはパーティのことを忘れるために、塾で友だちになった伊藤章伸のところで勉強することにした」[48]と友人宅で過ごしていた内容であったが、2008年の著書では「おれは成人式に行くのをやめた。(中略)近くの図書館に向かった。(中略)夜の8時まで図書館にいて家に帰った」[49]と図書館で過ごしていた内容に変化している。また、パーティに行かなくて済むように破ったというスーツに関しても、30万円と書かれているもの[32]と20万円と書かれているもの[47][48]があり、さらに、90年代の著書では「1月14日、前日になってふと考え込んでしまった。(中略)オレは20数万円のスーツをビリビリに破いて燃やしてしまった」[50]「1月14日、20万円の新調のスーツをズタズタに引き裂く」[51]と書かれていたが、2007年の著書では「1月15日に、おやじとおふくろにダーバンのスーツを買ってもらった。(中略)気がつくと、オレはおやじとおふくろが買ってくれたスーツをハサミでズタズタに切っていた」[52]と書かれており、1月14日時点でそのスーツは持っていなかったことになっている。さらに、スーツを調達した日についても、別の著書では「スーツも20万円ほどするような高級品を数カ月前から新調していた」[53]と変化している。
- 著書では「国学院や明治の場合、合格最低ラインは190点から高くても200点くらいだと思うが(中略)日本史で90点以上は取れると思っていたし、国語では絶対に95点以上いくと思っていた。そうすると、2科目で190点くらいにはなるので、英語でほんの少し加えれば大丈夫という計算ができた」[54]と書かれているが、吉野が受験した年の国学院(文・二部・文学科)の合格最低点は125点であり[55]、そこまでの得点は必要ではない。
大学について
- 90年代の著書では「立教・明治・法政ババババーっと合格の嵐だ」[56]「立教の文B(小論文の試験)を受かった」[57]「実際、学習院、明治、法政(すべて文学部の日文や国文)など、国学院よりも偏差値が高く、有名な大学にも受かった」[58]「まだ早稲田の入試が残っている」[59]「オレは8校受けたが、全部文学部だった」[60]との記述があり、さらに「オレは結局、すべての大学に受かっていたのだ」[61]と、受験した8校すべてに受かったかのような記述がある。ほか具体的な大学名として、中央大学[62]と日本大学[43]にも合格した旨を公言している。しかし、最近の著書では、早稲田大学や専修大学の受験に失敗した記述があったり[63]、「3校に合格した」[64]との記述になったほか、上記の著書の2009年の改訂版では、「オレは結局、ほとんどの大学に受かっていたのだ」という記述に変わっている[65]。なお、他大学の合格証書について、受験のきっかけとなった元交際相手の前で破った旨を述べている[66]。
- くわえて、志望校決定時には「迷わず国学院を第一志望に決めた。それ以外では、明治や学習院などを受けることにした」という記述があり[67]、国学院(文・一部)と学習院(文)の両方に合格したことになっている[68]が、そもそも1987年の国学院(文・一部)と学習院(文)(二部は存在せず)の入試日はともに2月17日であるため[69]両方を受験することは不可能である。さらに、吉野が大学に入学した1987年の逗子開成高校も、学習院大学の合格者が0人であると発表している[70]。
- 志望大学に関して、90年代の著書では「オレは、何がなんでも国学院と思っていたから、もし国学院がダメだったら、絶対に来年も受験しようと考えていた」[71]「早稲田や東大には行けなかったけど、行けなくてよかった」[72]など、国学院に対して強いこだわりを見せる記述が随所にあったが[73]、最近の著書では「オレは大学生活が終わったとき、なんか悔しかったね。それはやはり、国学院よりもいい大学に行きたかったからだ」[74]、「本当は早稲田に行きたかった。でも行けなかったから國學院に行った」[75]と書かれている。
- 1991年の著書では「各大学の入試がすべて終わった2月、とうとう第一志望の国学院大学の合格発表の日がやってきた。(中略)俺の受験番号がある」[76]と書かれているが、彼が卒業したのは二部であり、入試と合格発表は3月である[77]。また、「うちから大学まで1時間以上(中略)9時から朝1限始まるんで7時半には出ないと苦しい(中略)7時に目覚ましかけとく」と発言し[78]、また、緊張して学校を早退したという話では「今日の夜の10時、俺の一生が決まるんだと思うと、学校にいられなくなっちゃう。そわそわしちゃって。で、かーえろとか思って。速攻で家に帰るんだ。と、昼間の2時くらいに家に着いちゃうんだよ」[78] と発言していたが、彼が卒業したのは二部であり、授業は夕方開始である。また、彼の著作をVシネマ化した作品は「ノンフィクションドラマ」と銘打たれているところ[79]、その中で合格発表の際に映る受験票には一部にマルがついているが、彼が卒業したのは二部である。
- 大学時代、成績が1番で特待生だったと述べており[80]、授業料を免除されているにもかかわらず親から授業料として70万円預かってそれで豪遊した[81]旨を述べているが、國學院大學学報に記載されている昭和62年度から平成2年度の各年度における特待生の欄[82]に吉野敬介の名前は存在しない。また、父兄会が表彰する成績優秀者の欄にも名前が存在しない[83]。
- 大学時代に古文を特に勉強したことに関して「大学にはいっても、テニスだスキーだコンパだと、青春を謳歌するといえば聞こえがいいが、いまさらそんなバカをやる気はなかった」[84]と述べていたが、別の機会では、4人のグループ交際でテニスに行ったという話[85]や、クラスで中の良い男女5人ずつ計10人で毎週のように飲んだり長期休暇には毎回のように軽井沢やスキーに行ったりした話[81]をしている。
代々木ゼミナールでの経歴について
- 1991年の著書では「ふつう、代ゼミ講師になるのにテストはない。(いまは簡単なテストがある。ただしみんな落ちているが)」[86]「代ゼミはふつう、新卒の採用はしない。採用するとき、テストをすることもない」[87]とされ、「あとから聞いた話だが、代ゼミの竹村副理事長も、元暴走族のオレを採用するにあたり、不安があったらしい。テストを受ければ落ちるかもしれないから、それで不採用を納得してもらおうと思っておられたそうだ」[88]という経緯が書かれているが、2年後の著書では他に受験生がいる描写となり[89]、その後も「オレが代ゼミの採用試験を受けたときも、300人くらい受けて受かったのは俺1人」[90]「古文の試験で300人」[91]と述べるなど、現在に至るまで代ゼミ史上最年少・過去最高得点で合格した肩書き[92]となっている。
- 上記と併せて、1991年の著書では「話はそう都合よく進まず、オレは講師採用のテストを受けなければならなくなった」[93]と書かれていたが、2009年の著書では「じつは試験を受けなくても講師になることはできた。 オレはあくまで採用試験にこだわったのだ」[94]と、試験を受ける必要はないものの採用試験合格という肩書きを得るためにあえて受けたという旨が書かれている[94]。
- 大学4年時に代々木ゼミナールでチューターをやっており、開講したチューターガイダンスでは「200人入る教室は満席」[95]と書かれていたが、別の本では「300人の教室が満杯」[96]と変更されている。また、チューターガイダンスの時期も「大学4年の8月の終わりごろ」[96]以降の話だったのが、別の機会では大学3年のときの話としている[97]。また、その開始時刻も「午後1時20分から」[95][96]としていたのが、別の機会では「3時10分から4時40分」としている[97]。さらにチューターを経験した影響として、「正式に代ゼミに採用されるまえから、チューターをやっていたことなどもあり、オレの授業を選んでくれる生徒も多かった」[98]と書かれていたが、2008年の著書では「吉野敬介なんて、誰も聞いたことがない」[99]と、チューターとしての影響が無くなっている。
- さらに初めての授業の描写についても、「1年目の、初めての授業。400人を収容する教室で、おれの目の前にいる生徒はたったの5人だった」[99]となっていたが、別の著書では「第1回目の授業は、15人ほどの小さな教室だった」[100]「第1回目の授業は、教室にわずか15人ほどしかいなかった」[101]と、教室の規模と受講生の人数が変更されている。
窃盗について
- 2009年の著書では「物を盗むというのは、お店の人の生活に迷惑がかかるから、そういうことは俺はめったにやらなかった」[102]と書かれているが、90年代の著書では、以下のように窃盗・万引きの記述を頻繁に登場させていた。
- 1991年7月の著書には、「金がなくなると、西友とかニチイみたいなスーパーマーケットに行って、いろいろなものを万引きしてくる。それを友だちや後輩に売って、遊ぶ金を手に入れるのだ。ただ万引きするんじゃ面白くないから、誰がいちばん高いものをかっぱらってくるか競争する」[103]「ゲームセンターでは、(中略)カギを盗んで、タダで何度もやる」[104]「腹がへると、近くの店にパンを盗みに行く」[105]と、何度も窃盗の記述が登場している。
- 1993年の著書では複数の窃盗・万引きに関する記述があるところ、上記の2009年の「めったにやらなかった」と記述した著書が出た5か月後に出版した1993年著書の改訂版では、以下のように窃盗・万引きに関する記述をすべて削除している。以下、左が改訂前、右が改訂後。
- 「ケンカや万引きはしょっちゅう」[106]→「しょっちゅうケンカしていて」[107]
- 「バイクを盗んで乗り回したり」[108]→削除
- 「そのままケンカをやりに行ったり、万引きで誰がいちばん高価なものを盗めるか競争したり」[109]→「そのままケンカをやりに行ったりしたものだ」[110]
- 「バイク、ケンカ、シンナー、万引き……勉強するヒマなんてない」[111]→「バイク、ケンカ、タバコ……勉強するヒマなんてない」[112]
- 「オレは半端なワルじゃなかった。シンナー、万引き、盗み、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・・」[113]→「オレは半端なワルじゃなかった。シンナー、暴走族、ヤクザがらみのかけマージャン、鑑別所・・・・・」[114]。
- 同様に、2001年の著書では「バイク、シンナー、ケンカ、万引き・・・・・・、それがオレのすべて」[115]と書かれていたが、2011年にそれを大幅に加筆修正した著書では「バイク、集会、ケンカ、夜遊び・・・・・・」[116]と変更されている。
- 大学入学前、金がなくてセブン・イレブンで弁当を窃取したことを公言している[26]。また、大学時代、彼女に高価な誕生日プレゼントを渡すために、深夜にやっていたセブン・イレブンのアルバイトで店内の募金箱から金を窃取したことを公言している[78]。さらに、温泉旅行に行くために、セブン・イレブンの深夜のアルバイトで弁当を盗んで友人に売ってお金を稼いでいたと述べている[85]ほかに、代々木ライブラリーのアルバイト中にレジにある飴やホールズがよく無くなっていたところ、心当たりがあるという[117]。
高校時代以前のエピソードについて
- 2001年の著書では、実家が「貧乏だった」[118]として「オレにとって住まいとしての『家』の原風景は、四畳半一間に一家4人で暮らしていた家だ。もちろん、風呂はナシ」[118]など貧しかったエピソードが紹介されているが、2006年以後の著書では、父親のことは「慶應を出て、ある一部上場企業の部長」[119]、母親のことは「月収150万、ボーナス300万もザラって人だった」[120]と書かれている。
- 2001年の著書では「ただし、いじめっていうのはやらなかった。だって、いじめって卑怯だろ」[121]、2007年の著書では「およそ考えられる人間の行為の仲で、この『いじめ』ほど、愚かで恥ずかしい行為はない」[122]、2008年の著書では「だけど、イジメなんてものはしたことがなかった」[123]、と書かれている。しかし、別の機会には以下のような経験を述べている。
- 1991年の著書で「技術家庭の作品や美術の絵は、パシリ(遣いっぱしりをやるヤツのこと)にやらせて、自分は名まえだけ書いて提出する」と書いていた[124]。
- 小学校時代、クラスにいた大嫌いな金持ちの同級生に対して、「授業中も先生が黒板に書いてる隙を狙って、消しゴムちぎって後ろからカーンと投げてやる。飯田に当たったら勝ちなんていうゲームあってな」と述べている[125]。また、その同級生について、「大嫌いなんだけど、1年に1回仲良くするんだ。いつ?飯田の誕生日な。なんで?うめぇもん食えるから」と述べ、その際「飯田の部屋からラジコンはかっぱらう、ドカベン全巻かっぱらう」という話を述べている[125]。
- 1991年の著書では、高校で3回停学になったエピソードが随所に登場していた[126]が、2009年の著書では「俺の母校は3回停学をくらうと退学になる、という決まりがあった」として、友人が3回停学になって退学になったエピソードが書かれている[127]。
- 停学に至る自身の体験として、1991年の著書では「敵が40人いるにもかかわらず一人で仕返しに行き、オレの友だちをやっつけた奴を“病院送り”にしてしまったのだ」[128]と書かれていたが、同著を文庫化・加筆修正した版では「敵が5人いるにもかかわらず一人で仕返しに行き、オレの友だちをやっつけた奴を“病院送り”にしてしまったのだ」[129]と人数が35人減っている。
- 暴走族の特攻隊長として「最大時は1000台以上」[130]率いてきたと述べているが、数年前は「3000人を率いるのだ。1500台で一気に駆け抜ければ」[131]という表現で書かれており、さらにかつては「3000台」[132](6000人[26])と述べていた(この3000台のときの状況として、高校3年生(1984年)の9月に神奈川県中の暴走族が集まると述べている[133]が、東京都でさえ暴走族構成員のピークは1980年の5379人である[134])。
- 「行ける高校がなくて入ってくる、そんな高校だ」[135]「当時神奈川県でも最低ランクの高校」[136]など、自身の出身高校がいかに落ちこぼれているかを著作で語っているが、1987年の逗子開成高校は、早稲田5人・慶応1人・上智2人・中央7人・明治5人・立教3人・法政9人・青山学院2人・東京理科2人との合格実績がある[137]。ほか、吉野の卒業年における同校の進路状況も、「進学(各種専修学校含む)80%、就職10%、その他10%」である[138]。
その他
- 2008年8月の著書で「俺はインターネットはやらない」と述べている[139]が、2007年2月から個人ブログを開設している。
- 大学時代から予備校講師最初の頃まで通算7年半ほどサオリという女性(1浪して1歳年下の同じ学年でミス青学になったという[78])と付き合ったと述べている[78]が、該当する1987年から1990年まで(その前後も)ミス青学(正確にはミス青山)の中にサオリという名前の女性はいない[140]。
- 杉村太蔵がブログに掲載した自殺未遂の内容が自身の著書の内容に酷似していたとして怒ったことが話題となり[6]、直後の吉野の著書では杉村本人が寄稿文を寄せ[141]、盗作騒動の顛末が語られている。他方で吉野は、貧乏の同級生がアーモンドチョコレートを初めて食べて「種が入ってる」という感想を述べた話をしている[125]が、その話は嘉門達夫の「哀歌~エレジー~」のネタと同一である。また、「中学のとき、担任からしょっちゅう『お前はうちの学校のゴミだ』って言われてたんだけど、その担任とこの前ばったり街中であったとき、『お前は私のホコリだ』ってほめられちゃった。『ゴミからホコリかよ。まあ、似たようなもんじゃねえの』とか言いそうになった」[142]と述べているが、その話は島田紳助の話と同一である。
- 「株も嫌いだね。だって、誰かがトクをすると、誰かがソンするわけだろ。人を泣かして手にするカネなんて、おれはいらない」[143]と述べていたが、翌年の著書では「オレは昔から株と為替をやっていて、じつは今まで損をしたことがない」[144]と述べている。
- 大学時代にやった家庭教師のエピソードに関して、「生徒は常時、5、6人。自分から求めたのではない」[145]と書かれているが、別の機会では、多摩プラーザの高級住宅街でハガキに「“家庭教師します。時給応談。去年16人東大行きました”と嘘ばっかり書いて」、その地区に住んでいる同級生に託したという話をしている[146]。また、「家庭教師料は『時価』。(中略)成績に比例して、自分で納得する程度の月謝を払ってくれればいいことにしていた」[145]と書かれているが、別の機会では、駅から遠くボロボロの家で水しか出ず時給を値切られ生徒も宿題をやらない家庭教師先を5回目で辞めたという話をしている[146]。
- 自身の経営する塾の授業料(基本料金90分15,000円、医学部・歯学部受験コース90分30,000円)について、「おれはどんなに言われても絶対に授業料をまけない。内容に絶対的な自信があるからだ」[147]と述べていたが、その翌々年には「90分12,000円~」と値下げした[148]。
- インタビュー記事で、紹介欄に「趣味は競馬」[149]と書かれているが、その2頁後には、人生がギャンブルだからという理由で「賭け事はほとんどやらない」[150]と書かれている。
- テンプレート:要出典範囲が、後に出た「大好きに生きろ」の97頁には「1年目600万、2年目1800万、3年目3600万・・・自分に投資すればするほど年収は増えていった」との記載がある。そもそも彼が大学を卒業して講師になった時点で24歳で、二ヶ月後の6月には25歳になっていることから、この内容は全く辻褄があっていない。
著書一覧 (太字は本件記事の脚注内での略語)
単著
学習参考書
- 『吉野のピタリとでる古文単語』(代々木ライブラリー、1996年)ISBN 9784896804294
- 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part.1)Yozemi TV-net』(代々木ライブラリー、1998年)ISBN 9784896804980
- 『吉野のパロディ的中爆走古文"パテ古"(Part.2)Yozemi TV-net』(代々木ライブラリー、1998年)ISBN 9784896805352
- 『吉野の古文 スーパー敬語法』(代々木ライブラリー、1999年)ISBN 9784896805710
- 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖』(学研、1999年)ISBN 9784053007612
- 『吉野のセンター古文』(学研、2002年)ISBN 9784053014474
- 『吉野の古典文法 スーパー暗記帖 改訂版』(学研、2007年)ISBN 9784053024497
- 『吉野式 スーパー古文敬語 完璧バージョン』(学研、2007年)ISBN 9784053025685
- 『吉野式 爆走古文単語 完璧バージョン』(学研、2007年)ISBN 9784053025678
一般書
- 『暴走族から予備校講師になったオレが言うんだ「おまえはバカじゃない」やればかならず合格する』(ごま書房、1991年7月)ISBN 9784341014896
- 『だからおまえは落ちるんだ、やれ!』(ロングセラーズ、1993年7月)ISBN 4845404044
- 『やっぱりおまえはバカじゃない(小学館文庫)』(小学館、1998年2月)ISBN 9784094161014
- 『さらば、借り物人生― 何も言わない受験生、何も言えない親たちへ』(PHP研究所、2001年3月)ISBN 4569615546
- 『自分で決められないヤツは受験するな!(PHP文庫)』(PHP研究所、2004年7月)ISBN 9784569660264
- 『よく聞け!おまえはバカじゃない(小学館文庫)』(小学館、2006年11月)ISBN 9784094161021
- 『そこのバカ親!あんたの子供じゃ受からない』(小学館、2007年5月)ISBN 9784094161045
- 『今、頑張れないヤツは一生頑張れない。』(世界文化社、2008年6月)ISBN 9784418086009
- 『大好きに生きろ!』(東京書籍、2008年8月)ISBN 9784487802920
- 『半日で読む 源氏物語』(世界文化社、2008年10月)ISBN 9784418082261
- 『熱血! 吉野塾勉強法』(ロングセラーズ、2009年3月)ISBN 9784845421442
- 『今、変わらなければいつ変わるんだ、やれ! 』(ロングセラーズ、2009年4月)ISBN 9784845421459
- 『ROOKIES勝利学』(集英社、2009年4月)ISBN 9784797671902
- 『爆走道化師 暴走族特攻隊長からカリスマ講師へ』(東京書籍、2009年5月)ISBN 9784487803828
- 『紫式部にケンカは売るな! 吉野流「古典で学ぶ人生論」講義』(講談社、2009年7月)ISBN 9784062156684
- 『だからおまえは落ちるんだ、やれ! 決定版』(ロングセラーズ、2009年8月)ISBN 9784845408207
- 『学校では教えない古典』(東京書籍、2009年8月)ISBN 9784487803606
- 『1日で読める源氏物語』 (PHP文庫)』(PHP研究所、2010年9月)ISBN 9784569675343
- 『オマエだけの言葉で話してみろよ! 人をその気にさせる、吉野流会話術100』(講談社、2011年1月)ISBN 9784062167109
- 『だからおまえは落ちるんだ、やれ!決定版(ロング新書)』(ロングセラーズ、2011年3月)ISBN 9784845408665
- 『砂漠から芽を出せ! (PHP文庫)』(PHP研究所、2011年7月)ISBN 9784569675886
- 『一日で読める平家物語』(東京書籍、2011年12月)ISBN 9784487805303
- 『20代で受けておきたい仕事の授業』(小学館集英社プロダクション、2012年3月)ISBN 9784796871099
- 『一日で読める徒然草』(東京書籍、2012年10月)ISBN 9784487807086
共著
一般書
- 安河内哲也, 吉野敬介『今日から始める「やる気」勉強法』(ロングセラーズ、2007年6月)ISBN 9784845421084
- 安河内哲也, 吉野敬介『驚くほど伸びる!5日間「やる気」改革プログラム』(ロングセラーズ、2008年3月)ISBN 9784845421152
- 安河内哲也, 吉野敬介『何のために勉強するのか (ロング新書) 』(ロングセラーズ、2011年3月)ISBN 9784845408672
- 安河内哲也, 吉野敬介『今やれよ!』(ロングセラーズ、2013年5月)ISBN 9784845422845
出演
コマーシャル
テレビ
講演
- 早稲田大学企画集団便利舎主催 吉野敬介トークライブ「特講〜未然形からの脱却〜」(早稲田大学大隈大講堂、2008年6月25日)
- 学生団体SMPY主催 第59回 東京大学駒場祭 吉野敬介講演「頑張れないヤツ」(東京大学駒場キャンパス、2008年11月23日)
- デジタルハリウッド大学キャリアセンター/ビズハーツ主催『今変わらなければいつ変わるんだ』(デジタルハリウッド大学、2009年2月1日)[151]
- 島根県雲南市教育委員会(2009年[152]、2010年[153]、2011年[154])、2012年[155])
- 中央大学学術連盟証券研究会主催「今、未来を変えろ!」(中央大学多摩キャンパス8201教室、2011年11月12日)
- 福島県立いわき光洋高等学校主催・吉野敬介講演『頑張れないヤツ』(福島県立いわき光洋高等学校、2012年5月31日)[156]