プラハ窓外投擲事件
プラハ窓外投擲事件(プラハそうがいとうてきじけん、テンプレート:Lang-cs, ドイツ語:Prager Fenstersturz)は、1419年と1618年に起こったボヘミア(現・チェコ)の神聖ローマ帝国に対する反抗。前者はフス戦争の契機、後者は三十年戦争の契機として知られる一方、チェコにおける民族運動とも評価される。
第一次プラハ窓外投擲事件
1415年、コンスタンツ公会議において、宗教改革の先駆者として知られるプラハ大学教授ヤン・フスが、異端と宣告されて火刑に処された。ボヘミア人たちはこれに猛烈に抗議したが、それ以上のことではなかった。むしろ問題になったのは、ヤコウベク・ゼ・ストシーブラが始めたウトラクィスム(両形色拝領)である。この要求に対して、ローマ・カトリック教会はインターディクトゥム(聖務停止)で応じた。
ボヘミア王ヴァーツラフ4世は1419年、弟の神聖ローマ皇帝ジギスムントの仲介でローマ教会との和解策を探る。その結果、プラハのほとんどすべての教会をローマ教会に復帰させることになった。しかし、フス派の中心となっていた新市街参事会を解散し、ローマ教会信徒だけの新しい新市街参事会を組織した時、これに憤ったフス派の勢力は7月30日、プラハの市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と市参事会員を窓から投げ捨てたとされる。これが第一次プラハ窓外投擲事件である。これを聞いたヴァーツラフ4世はショックで死んでしまった。
この事件を契機として、ドイツ人の追放やカトリック教会への襲撃が広がり、フス戦争が勃発した。このチェコにおける民族運動は1436年まで続いた。
第二次プラハ窓外投擲事件
1618年5月23日、プラハ城を襲った民衆によって王の使者である国王顧問官2名と書記の3名が、城の三階の窓から地面に投げ落とされた事件。三十年戦争の発端となった。
1617年、熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派として知られていたハプスブルク家のフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位し、プロテスタントを迫害する政策を実行しようとした。これに反対するプロテスタントのボヘミア貴族たちはフェルディナントを王と認めず、対立が深まっている最中の事件であった。下の地面までは20メートル以上あったが、下に干し草が積んであったため投げ落とされた3名は命を取り留め、フェルディナントのいるウィーンへ逃れてプラハの反乱を報じた。
事件後、ボヘミア貴族たちは、新教徒でプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎え、神聖ローマ帝国から離反する動きを見せた。ハプスブルク家は鎮圧のため軍を派遣し、1620年の白山の戦いに勝利して、ボヘミアの支配を固めた。しかし、財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。
「第三次プラハ窓外投擲事件」
1948年3月10日、チェコスロバキアの外相であったヤン・マサリク(初代大統領トマーシュ・マサリクの息子)が、外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿の転落死体として発見された。自殺と発表されたが、死因には不可解・不明瞭な面があり、共産主義者によって殺害されたと言う説もある。殺害説を認める人々の間ではこの事件を「第三次プラハ窓外投擲事件」と呼ぶ場合がある。彼は共産主義政権との関係に苦慮していたと言われている。
ヤン・マサリクの死後、チェコスロバキアは完全に社会主義国化され、1968年のプラハの春を除く41年間に渡りソ連の衛星国となった。