呉蘭
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姓名 | 呉蘭 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 218年(建安23年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 大将〔劉備〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 劉備 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
呉 蘭(ご らん、? - 218年)は、中国後漢末期の武将。
生涯
劉備配下。建安22年(217年)、呉蘭は劉備の漢中進軍に先行して、張飛・馬超・雷銅[1]と共に下弁(武都郡)に駐屯し、曹洪と対峙した。この時、張飛が固山に駐屯し、曹洪軍の後方の糧道を断つ素振りを見せたため、曹洪軍内では呉蘭と張飛のいずれを攻撃すべきか議論となった。そこで、曹洪の幕僚であった曹休が「張飛の動きは擬態に過ぎません。態勢が整わない内に呉蘭を撃ち破れば、張飛は逃走するでしょう」と進言したため、これにより軍議は決した。
翌建安23年(218年)、呉蘭は曹洪に撃破された。また、部将である任夔らが斬られたとある。このため、同年3月に張飛・馬超とともに逃走した。しかし、陰平に逃れた呉蘭は氐族の強端に斬り殺され、その首級を曹操に送られたという。また雷銅も詳細な過程は不明だが、軍を全滅させられ戦死している。
物語中の呉蘭
小説『三国志演義』では、劉璋配下として登場する(史実では、劉璋配下であったかどうかは確認できない)。劉備が益州に攻めて来た時に、呉懿の推薦を受けて雷銅と共にその副将となり、雒城へ援軍に向かう。冷苞を救出しようとしたが黄忠により敗退している。その後、劉備軍を一時的に涪水関まで押し返すが、反撃を受け降伏する事になる。
劉備が益州を平定すると、馬超の部下として下弁で魏軍と戦うが、敗れ去る。後に漢水でも馬超と共に参戦し、曹操を追いつめるが、援軍として駆けつけた曹操の次男曹彰と一騎打ちになり、2,3合の後に討ち取られている。
注
- ↑ ただし雷銅は、建安23年に武都に進入したとの蜀書先主伝の記述しかないため、建安22年末時点から呉蘭と行動を共にしていたかは、不詳である。