遣明使
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遣明使(けんみんし、1401年-1547年)とは、室町幕府から明に派遣された使節のことをいう。室町幕府第三代将軍足利義満(在職1368年 - 1394年)が始めた。
概要
南北朝合一後、義満は「日本国王臣源義満」名義で明との通交を試みるが、明は冊封体制下において、南朝懐良親王を「日本国王良懐」として認められていたため、受け入れられなかった。義満は出家するなど自らの地位を明確にし、1401年「日本国准三后源道義」の名義で明との通交を求め、商人の肥富・僧の祖阿を派遣した。1402年、義満は永楽帝に日本国王に封ぜられ、1404年勘合貿易(日明貿易)が開始された。この時期李氏朝鮮(1392年 - 1910年)も冊封体制に組み込まれたので、東アジア情勢は安定した。
桂庵玄樹(臨済宗の僧侶、薩南学派、1427年 - 1508年)・雪舟等楊(水墨画家、禅僧、1420年 - 1502年または1506年)らが随行した。
遣明使履歴
- 1401年 - 幕府船:明に国書を送る。正使祖阿(同朋衆)・博多商人の肥富(こいずみ)を派遣した。翌1402年、明は大統暦を義満に与え、日本国王として遇す[1]。国書は公家の東坊城秀長が作成。
- 1403年 - 幕府船:明に国書を送る。堅中圭密を派遣。国書は絶海中津が作成。以降、正使・副使は主に五山禅僧が担当[2]。
- 1404年 - 幕府船:勘合貿易開始
- 1405年 - 幕府船
- 1406年 - 幕府船
- 1408年 - 幕府船
- 1410年 - 幕府船
- 1411年 - 幕府船。以降、足利義持の時期に断絶。
- 1432年 - 幕府船・相国寺船・山名船・大名寺院十三家寄合船(岩清水社家や細川家などの共同出資)・三十三間堂船
- 1434年 - 幕府船・相国寺船・山名船・大乗院船・三十三間堂船
- 1451年 - 天竜寺船・伊勢法楽舎船・九州探題船(博多聖福寺造営船)・大友船・大内船・大和多武峯船
- 1465年 - 幕府船・細川船・大内船。これ以降、細川氏と大内氏との抗争時代になり、寺社船は派遣されなくなる[3]。
- 1476年 - 幕府船・相国寺勝鬘院船
- 1483年 - 幕府船・内裏船
- 1493年 - 幕府船・細川船
- 1506年 - 大内船・細川船
- 1520年 - 大内船・細川船
- 1538年 - 大内船 :1540年(天文9年)とも。日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣。湖心碩鼎らが赴く。また、このときに「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と明に要請[4]。
- 1547年 - 大内船:最後の遣明使船
脚注
- ↑ 大隅和雄・中尾尭編『日本仏教史 中世』吉川弘文館,111頁
- ↑ 大隅和雄・中尾尭編『日本仏教史 中世』吉川弘文館,111頁
- ↑ 大隅和雄・中尾尭編『日本仏教史 中世』吉川弘文館,113頁
- ↑ 村井章介『中世倭人伝』岩波新書,1993年、218頁
遣明使を題材とした作品
- 岩井三四二『大明国へ、参りまする』(文藝春秋、2007年) ISBN 9784163259802