バレンティーノ・ロッシ
テンプレート:Infobox MotoGP rider バレンティーノ・ロッシ(Valentino Rossi, 1979年2月16日 - )は、イタリア・ウルビーノ出身のオートバイレーサー。愛称は「バーレ」「ザ・ドクター」「ろっしふみ」。
ロードレース世界選手権参戦以来15年間で9回のワールドチャンピオンを獲得しており、「史上最強のライダー」との呼び声も高い。現在ヤマハ・ファクトリー・レーシングチームに所属。
目次
来歴
幼少期
かつてスズキで活躍したGPライダー、グラツィアーノ・ロッシの子として生まれる。父親が強制したわけではないが、幼少のころよりポケバイ・カートに興じ、当時からライディング感覚は優れていたという。
アプリリア在籍時代(125cc・250cc)
テンプレート:MGP、イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにアプリリアを駆ってデビュー。チェコGPで初優勝を遂げる。この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親・坂田和人・上田昇など)に親しく接し、現役チャンピオンだった青木はロッシによくアドバイスを与えていたという(後に青木は「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」といった旨のコメントをしている)。翌テンプレート:MGPには11勝を挙げ自身初のチャンピオンに輝いた。
テンプレート:MGP、250ccクラスにステップアップ。同じアプリリアの先輩である原田哲也とロリス・カピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、ランキング2位。原田とカピロッシの抜けた翌テンプレート:MGPはホンダの宇川徹を下してチャンピオンを獲得した。
ホンダ在籍時代(500cc・MotoGPクラス)
最高峰の500ccクラスにステップアップするにあたり、ホンダに移籍した。ホンダは、実質ワークス格のチーム、ナストロ・アズーロ・ホンダを結成し、エンジニアにGP界で数々のチャンピオンを生み出したジェレミー・バージェスを起用するという、500ccルーキーとしては破格の待遇でロッシを迎えた。
500cc参戦初年度のテンプレート:MGP、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたが、シーズン序盤は転倒が目立った。シーズンが進むにつれ安定感が現れ、中盤のイギリスGPで初優勝。終盤のリオGPでも優勝し2勝でランキング2位を獲得した。また、日本メーカーであるホンダに移籍したことから、ロッシが出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦した。コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わった。
500cc2年目のテンプレート:MGP、ロッシは11勝を挙げ圧倒的な強さでチャンピオンを獲得、3クラス制覇の偉業を成し遂げた。開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録し、前年と同じ体制で挑んだ鈴鹿8耐でも優勝した。
最高峰クラスが500ccクラスからMotoGPクラスに移行したテンプレート:MGP、ロッシはワークスのレプソル・ホンダに加入した。ホンダが新たに投入した4ストロークマシン、RC211Vを駆ったロッシはまたしても11勝を記録し、チャンピオンとなった。
翌テンプレート:MGPはヤマハからライバルのマックス・ビアッジ、スズキからセテ・ジベルナウが同じホンダ(サテライトチーム)に移籍し、苦しいシーズンになるかと思われたものの、9勝を挙げチャンピオン獲得した。最終戦バレンシアGPでテンプレート:MGPからのヤマハへの移籍を発表した。
ヤマハ移籍
5連覇達成
ロッシが移籍した段階で、ヤマハはMotoGPクラスで通算2勝しか挙げていなかった。ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入し、またホンダ時代にロッシのエンジニアを務めたバージェスをホンダから引き抜いた。ウィンターテストの段階から2004年型ヤマハ・YZR-M1は戦闘力を大幅に上げていた。
そして挑んだテンプレート:MGP開幕戦南アフリカGP、ロッシは予選でポールポジションを獲得、決勝でもホンダのエース格・ビアッジとの激しい優勝争いを展開。激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンにキスをした(自叙伝では「メットの中で大笑いしていたのさ!」と語っている)。
その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せ、9勝でチャンピオンを獲得。優勝請負人としての仕事を果たしてみせた。ファンや関係者からは「ホンダやヤマハが強いのではなく、ロッシとバージェスのコンビがいるところが強いのだ」といった感想さえ聞こえた。この年のヤマハはロッシの他にカルロス・チェカ、阿部典史、マルコ・メランドリの3人のライダーにも同年式のYZR-M1を与えたが、優勝経験のあるチェカ、阿部も含め、ロッシ以外には誰も勝利を挙げることがなかった。
テンプレート:MGPもロッシは11勝でチャンピオンを獲得。これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、テンプレート:MGPからテンプレート:MGPにかけて500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並んだ。
テンプレート:MGPはこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、開幕戦スペインGPでスタート直後に後続車に追突されるというアクシデントを皮切りに例年にない苦しいシーズン運びを強いられる。第16戦ポルトガルGPでようやくランキングトップに躍り出たものの、続く最終戦バレンシアGPで転倒。ホンダのニッキー・ヘイデンにタイトルを奪われ6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。
800cc時代
テンプレート:MGPはMotoGPのマシンレギュレーションが変更となり、排気量が800ccに引き下げられエンジン出力が低下した。そのため前年までのマシンに求められた有り余るパワーのコントロールよりも、コーナリングスピードを高め限られたパワーを使い切るスタイルが求められるようになった。このようなスタイルは比較的250ccクラスのそれに似ており、2004年・2005年と250ccクラスを連覇したダニ・ペドロサがロッシの強力なライバルとして予想されていた。しかし開幕してみるとペドロサと同じく250cc出身でMotoGPクラス2年目のケーシー・ストーナー(ドゥカティ)が圧倒的な強さで勝利を重ね選手権をリードした。ロッシも4勝し何とか食らいついたが敵わず、終盤の日本GPでチャンピオンを逃した。
テンプレート:MGPは前年にストーナーが独走する大きな要因のひとつとなったブリヂストンタイヤを自身のマシンに採用し、タイヤによるハンディの回復に努めた。序盤はチームメイトで250ccクラスからステップアップしたばかりの新人ホルヘ・ロレンソの驚異的パフォーマンスが話題となる中、ブリヂストンタイヤに慣れる時間を要したのか少々出遅れた感もあった。第4戦中国GPでシーズン初勝利をあげるとシーズン終盤には5連勝を記録。計9勝で3年ぶりとなるチャンピオンに返り咲いた。
テンプレート:MGPは最初2戦をともに2位で終え、第3戦スペインでシーズン初優勝を記録した。しかし第4戦ルマンではクラス唯一の転倒を喫し、得意にしていた第5戦ムジェロでウェットコンディションによるフラッグtoフラッグの影響もあり3位になるなど若干低迷した。しかし、そこからは一気に巻き返し第9戦ドイツで自身GP100勝目を飾り、第10戦ドニントンで一度転倒して5位、第12戦インディアナポリスでは転倒リタイヤとなるが、年間通して安定した成績を残していたため大事にならず[1]、第16戦セパンにて1戦を残してチャンピオンを決定した。
テンプレート:MGPは開幕戦から1勝を含め3戦連続表彰台に立ち、フランスGPではポールポジションを獲得する走りを見せる。しかし、第4戦イタリアGPのフリー走行での転倒で右足を骨折した[2]。今期絶望といわれたが、ドイツGPから松葉杖をつきながら復帰し、アメリカGPでは3位表彰台に立った。本人はけがについて「サッカーをやるわけじゃない」と話した[3]。その後も勝利こそ第15戦マレーシアGPのみにとどまったが、安定した走りでシーズン3位の成績を残した。
この年は足の他にも、4月のモトクロストレーニング中に負傷した右肩の痛みに苦しめられた。シーズン終了後に手術を行い、2011年は回復具合を計りつつ始動することになった。
ドゥカティへ
7年間在籍したヤマハを去り、テンプレート:MGPからはバージェスを引き連れてドゥカティチームに移籍した[4]。初戦カタールGPは7位に終わり、ウェットレースとなった第2戦スペインGPでは2位争い中に転倒、ケーシー・ストーナーを巻き込んでリタイヤに追いやるミスを犯してしまった[5]。第4戦フランスGPでは移籍後初となる3位表彰台を獲得するが、それ以降はトップ争いには絡めない状況が続いた。第7戦ダッチTTからは翌2012年シーズン用の1000ccプロトタイプマシン(デスモセディチGP12)に従来の800ccエンジンを積んだニューマシン「GP11.1」を投入したが[6]、事態が大きく好転することはなかった。結局ロッシはGPデビュー以来初めて優勝のないシーズンとなり、年間ランキングも最高峰クラス自己最低の7位に沈んだ。
テンプレート:MGPもレインコンデションのフランスGPで2位に入ったものの、状況は好転しないままレースを続けていたが、8月にテンプレート:MGPは古巣のヤマハへ復帰することを発表する。その後サンマリノGPでも2位となったが、結局この2位2回がドゥカティでの最高位となり、2年間勝利を挙げられないままドゥカティを去ることになった。
ヤマハ復帰
テンプレート:MGPはヤマハ・ファクトリー・レーシングでホルヘ・ロレンソと再び組み、第7戦ダッチTTで2年ぶりの優勝を果たす。
4輪レースでの活動
世界ラリー選手権 (WRC) に3度の出場経験がある。
- 初出場は2002年のラリー・グレートブリデンで、周囲からの大きな注目を集めていたが、2本目のスペシャルステージ (SS) でコースアウトと、無念の結果に終わった。
- 4年後の2006年には、ラリー・ニュージーランドに出場。絶対完走を目標にスタートし、序盤はグループNより遅かったが、持ち前の適応能力を発揮し、最後は11位でフィニッシュした。
- 2008年には、チャンピオン獲得後の慌ただしいスケジュールを縫って2002年と同じラリー・グレートブリデンに出場。12位でフィニッシュした。
他にも地元のラリーイベントに参加するなど、かなりのラリー好きでWGP引退後はラリー転向もほのめかしている。3度の出場時とも、カーナンバーは「46」。特に、初めてのWRC出場となった2002年は、運営上の都合により37から50までが欠番となっていた為、年間を通じて40番台を付けて出場したのはロッシのみである。
2005-2006年のシーズンオフにフェラーリのF1テストに参加し、2007年からF1に転向するという噂が流れた。その後、2008年と2010年にもMotoGPのタイトル獲得のご褒美としてテストを行い[7]、 ヤマハとの契約が終わる2011年からフェラーリのサードカーを走らせるという可能性を語った[8][9]。ジョン・サーティース以来となる2輪・4輪ダブルチャンピオンの期待がかけられたが、2013年にF1参戦の夢が終わったことを認めた[10]。
ライディングスタイル
テンプレート:出典の明記 ロッシのライディングは長身・長い手足を生かした積極的な荷重コントロールによってマシンの性能を最大限引き出すことが特徴的である。またタイヤのスライド感覚にも優れ、2002年に駆ったホンダRC211Vのエンジンブレーキ(バックトルク)によるリアタイヤのスライドに他のライダーが悩まされる中、ロッシはそのスライドを積極的にコーナリングに活用しアドバンテージを得ていた。
タイヤのスライド感覚が鋭いため、スリップダウン・ハイサイドでの転倒が極端に少なくロッシの安定した強さの要因(=リタイア・怪我が少ない)にもなっている。特にハイサイドの処理は秀逸で、マシンから振り落とされそうになっても一瞬早く反応して収束させてしまうライダーは稀有である。受け身も巧いため転倒した場合にも大怪我を負いにくいという強みも併せ持つ。また、ロッシは世界選手権に125ccクラスでデビューしてからの連続出走記録を更新し続けていたが、2010年6月のイタリアGPフリー走行で右脛骨を骨折し予選から欠場[2]となり、最終的に230試合連続出場という記録となった。
その一方で近年までは雨には弱く、著しく成績が下がるか転倒といったパターンであった。目立つところでは2001年イタリアGP、本来得意なムジェロで最終ラップで転倒し雨に弱いイメージの一因となっている。しかしここ数年ほどの間に雨を克服したようで、2005年の中国GPでは雨のレースでオリビエ・ジャックを抑え優勝を飾っている。
レーススタイルとしては典型的な「差し馬」型で、トップを走るライダーの後にぴったり付け、ラスト2~3周でスパート・優勝というパターンがホンダ時代には多く見られた。ヤマハに移籍してからは、マシンの違いから他の勝ち方も見られるが大きくは変わってはいない。予選一発の速さ的には他のライダーには負ける事があっても、予選4番手以降(フロントローが取れなくとも)から気づけばトップというレース展開は定番である。
2009年のドイツGPで最多表彰台記録に並び、一発の速さもある、ロングディスタンスの速さもあると、まさしく絶対王者としての地位を確立させている。
近年、ブレーキング時にコーナー内側の足をステップからわざと外すスタイルが流行している。これに対しロッシは「バイク上でさらに前輪へ荷重がかかるように感じるから」としているが、データロガーの回収情報では何も差が無く、速くなってもいないことも認めている[11]。
人物
性格
イタリア人らしく非常に陽気な性格で知られる。ファンサービス精神にあふれており、ウィニングラップではウィリー・バーンアウトを積極的に行ったり、後述のイベントなどで観客を楽しませる。
しかしレースに対する姿勢は非常にプロフェッショナルであり、テストを積極的にこなしマシン開発に尽力する。また自らのミスで成績が芳しくない時などは無口で厳しい表情を見せるが、自身、同郷と言うことで応援していたマッシミリアーノ・ビアッジの、上手くいかない際はマシンのせい、スタッフのせいというあまりの態度に辟易した過去もあり、リタイアの原因がマシントラブルにあったとしても、公の場でスタッフを責める発言は口にしない。また勝利の際は必ずチームとスタッフに謝意を述べる。こうした性格のギャップもロッシの魅力の一つである。
2年目のジンクス
今まで125cc、250cc、WGP、鈴鹿8時間耐久レースと、チャンピオンを取る、もしくはビッグレースで勝つというのは全て2年目で達成している。一つだけの例外がMotoGPクラスでのチャンピオンで、これだけは1年目に達成している。しかしMotoGPが800ccになった際にはやはり2年目で達成しているため、1年を通しマシンを育てていき、2年目で結果を出すというのが本人のスタイルのようである。
ビジュアルへのこだわり
ロッシの大きな特徴としてビジュアルデザインに対するこだわりがある。ヘルメット・ツナギやマシンに後述のキャラクター・パロディなどの遊び心にあふれたステッカーを多数製作・貼付している。また、2001年までは地元イタリアGPでマシン自体にスペシャルカラーを施していた。
ヘルメットデザインの多彩さは他のライダーの及ぶところになく、毎年2~3つのデザインを使いまわしている。地元イタリアGPでは毎年スペシャルデザインを用意している。2008年イタリアGPでは、自らの顔写真をヘルメット頭頂部にデザインし(ストレートなどで伏せると正面を向くようになっている、この時の顔は「ブレーキングポイントで踏ん張った時の顔」であった)特に話題を呼んだ。
主なキャラクターは月と太陽、ブルドッグ、カメ、ザ・ドクター。好きな色は黄色である。 月と太陽のデザインはロッシ自身の二面性を表しているらしい。
パロディ・自虐ネタが好きで、2004年序盤に4位が続いて迎えた地元イタリアGPでは、ヘルメットに木のメダルをデザインし(金・銀・銅に次いで4位は木という意味。もちろんイタリアの洒落)、「自分には4位がお似合いだ」というメッセージを込めた(結果は優勝)。また不振が続く2006年には、シートカウルが定位置になっているブルドッグのステッカーにランキング1位のライダーと自分とのポイント差を気温差のように表示し、ポイント差が開くとマイナスの度合いが開きブルドッグが凍えていく、という皮肉なデザインを使っていた(普段のブルドッグは暑そうにしている。最大時にはブルドッグはアイスブロックで覆われていたが、その後ポイントが縮まりアイスブロックは撤去された)。
憧れる人物
若手時代、日本人GPライダー阿部典史の大ファンだったことで知られ(阿部がワイルドカード参戦したテンプレート:MGP日本GPの走りを見て憧れたという)、阿部への尊敬から自らにろっしふみ(ロッシ+のりふみ)というニックネームを付けたほどだった。また、阿部のニックネーム「ノリック」にならい、Valentinic(バレンティニック)と書いたロゴをマシンに貼ったこともある。それ故2007年10月阿部の交通事故死に対し、ロッシは大きなショックを受け、直後に行われたオーストラリアGPで「ノリックは僕のアイドル。唯一サインを求めたライダーだ」と阿部への追悼コメントを述べ、決勝には喪章を付けて臨んだ。
また、もう一人のアイドルはWRCドライバーのコリン・マクレーで、この年相次いで二人のアイドルを失ったロッシは「2007年はよくない年だ」と語った。
ライバル関係
チャンピオンを争うライバルとの関係では、マックス・ビアッジとの不仲が知られた。レース中にビアッジが肘でロッシを押し出したり、レース後の表彰式を待つ間に乱闘寸前になったりした模様が、ドキュメント映画『ファスター』に収められている。
セテ・ジベルナウとは2005年スペインGPの最終ラップ、最終コーナーで強引にインを突き、ジベルナウを弾き出して優勝した。レース後は接触について謝罪せず、表彰式ではブーイングを浴びた[12]。
ケーシー・ストーナーとは2008年アメリカGPのバトルで因縁が生まれ、2011年アメリカGPでは挑発的な言動を応酬した[13]。
その他
- 2005年の推定年収は33億円。2006年収入はスポーツ紙スポルトによるとスポーツ界ランキング7位(約35億円)で、サッカー選手のロナウジーニョ(8位)や野球選手のデレク・ジーター(10位)より上だった。なお過去に海外収入の扱いを巡って自国の税務当局とトラブルを起こしたことがある。
- ゼッケンナンバーはデビュー以来一貫して"46"を使い続けている。この番号は父グラシアーノが現役時代に好んで使用していた番号である。MotoGPでは前年のチャンピオンに「1」を付ける権利があり、それを用いるのが一般的であるが、ロッシはチャンピオンになった翌年も「46」を使っている。2007年には親子でヤマハのCMに出演した。
- 大のタバコ嫌いとして有名で、以前タバコ会社がスポンサーを務めるチームからのオファーを蹴って比較的ギャラの低いレプソル・ホンダに所属していた。ただし、ヤマハ移籍後2年間は、ゴロワーズ・キャメルとタバコ会社がスポンサーを務めるチームに所属していた。
- 個人スポンサーとしてイタリアのビールブランドであるナストロ・アズーロがついていた。ナストロ・アズーロは、500cc時代まではロッシの所属チームのメインスポンサーを務めていた。また、使用するヘルメットメーカーは一貫してイタリアのAGV。ツナギなどライディングウェアは全て同じくイタリアのダイネーゼと契約している。
- 世界中を転戦するMotoGPであるが、彼のファンクラブは熱心に全てのレースに帯同し、ロッシが勝つとウィニングラップにコースに出てきてロッシと喜びを分かち合う。チャンピオン獲得など記念すべきレースでは何らかのイベントを用意している場合が多い。
- レース開始前、ピットから出て行く際には必ずマシンのステップを掴んでしゃがみこみ、精神統一を行う。
- 好きなスポーツにサッカーがあり、贔屓のチームはイタリア1部リーグ・セリエAのインテル・ミラノである。イタリアが優勝した2006年ワールドカップドイツ大会直後の開催だったドイツGPで優勝。その表彰式にて、ワールドカップ決勝戦でジネディーヌ・ジダンから頭突きを受けた事で時の人となっていたイタリア人DF・マルコ・マテラッツィ(インテル・ミラノ所属)のイタリア代表ユニフォームを着て表彰台に上がった。そのユニフォームはマテラッツィ本人に優勝を祝福する連絡をした所、本人からそのお礼に送られたものだった。
- イタリア国内でも勿論人気は高く、様々な番組にて彼は登場、または取り扱われているが、ロッシの特徴的な癖の一つである股間を触る行為をイタリア・コメディアンに頻繁に真似されている。
主な戦績
- 1995年:イタリア選手権125ccチャンピオン
- ヨーロッパ選手権125ccランキング3位
ロードレース世界選手権 戦績
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
- * は、シーズン中の順位とポイント。
脚注
外部リンク
- valentinorossi.com バレンティーノ・ロッシ公式ウェブサイト
- @ValeYellow46 バレンティーノ・ロッシ公式ツイッター
- fanclubvalentinorossi.comバレンティーノ・ロッシ オフィシャルファンクラブ
- motogp.com バレンティーノ・ロッシ経歴
テンプレート:MotoGPクラス世界チャンピオン テンプレート:250ccクラス世界チャンピオン テンプレート:125ccクラス世界チャンピオン テンプレート:鈴鹿8時間耐久ロードレース歴代勝者 テンプレート:MotoGP
- ↑ 特にドニントンは2位ロレンソが転倒リタイヤ、3位ストーナーはレインタイヤを履くギャンブルに失敗し14位で、逆にポイント差を離す展開になっていた
- ↑ 2.0 2.1 V.ロッシ、骨折でホームレースキャンセルMotoGP公式サイト
- ↑ 遠藤智「奇蹟の復帰で見せつけたロッシが天才たる所以」 『Sports Graphic Number』2010年9月2日号、文藝春秋、2010年、雑誌26851・9・2、117頁。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ http://www.honda.co.jp/WGP/race2011/rd02/report/
- ↑ http://www.motogp.com/ja/news/2011/Rossi+on+the+GP111+Ducati
- ↑ "V.ロッシ、フェラーリF1で好タイムマーク". motogp.com.(2010年1月21日)2013年6月5日閲覧。
- ↑ "バレンティーノ・ロッシ、F1転向の可能性を認める". F1-Gate.com.(2009年6月7日)2013年6月5日閲覧。
- ↑ "バレンティーノ・ロッシ、3台目のフェラーリでのF1参戦への願望を認める". F1-Gate.com.(2010年6月4日)2013年6月5日閲覧。
- ↑ "ロッシ 「F1参戦の夢は終わった」". GpUpdate.(2013年3月7日)2013年6月5日閲覧。
- ↑ ヤマハWebサイト上ライダーコラム
- ↑ 遠藤智 "開幕戦を後味悪くした、王者ロッシの愚行。". Number Web.(2005年4月28日)2013年6月5日閲覧。
- ↑ "【MotoGP】悩める天才、ロッシ。派手な場外乱闘を発奮材料にできるか?". web Sportiva.(2011年5月5日)2013年6月5日閲覧。