木瀬部屋
木瀬部屋(きせべや)は日本相撲協会所属で出羽海一門の相撲部屋。かつて伊勢ヶ濱一門(旧・伊勢ヶ濱一門)にも同名の部屋が存在したが、系統的つながりはない。
目次
歴史
2002年11月場所限りで現役を引退して、以降は三保ヶ関部屋の部屋付き親方となっていた年寄・11代木村瀬平(元幕内・肥後ノ海)が、2003年12月1日付で7人の内弟子を連れて三保ヶ関部屋から分家独立して木瀬部屋を創設した。以降、多くの学生相撲経験者を弟子に迎え入れ、清瀬海や臥牙丸などの関取を輩出し、27人の所属力士を擁する大規模な部屋へと成長した。
部屋の名前と師匠の通称が「木瀬」となっている理由は、「木村」が行司の家名であることから区別をするために「木村」と「瀬平」から1字ずつ取っていることによる。同様の例に「式秀」(式守秀五郎)がある。
2010年5月に、2009年7月場所で暴力団幹部らが一般では入手できない維持員席で観戦していた問題で、日本相撲協会は整理券の確保に関与したとされる11代木瀬に対して、役職を委員から平年寄へ2階級降格する処分と、木瀬部屋の所属力士を出羽海一門預かりとする処分を決定した。これにより木瀬部屋は閉鎖されることが決定し、同年5月29日に11代木瀬と所属力士27人は同じ出羽海一門に所属する北の湖部屋へ移籍した。同年5月31日に木瀬部屋の一同預り願い届が提出され、正式に木瀬部屋は閉鎖された。
2012年3月場所中に行われた日本相撲協会理事会において、木瀬部屋の閉鎖処分の解除が決定し、同年4月1日付で北の湖部屋の部屋付き親方となっていた11代木瀬と力士26人が再び木瀬部屋へ移籍して木瀬部屋が再開された。この時、木瀬部屋の閉鎖期間中に北の湖部屋へ入門した常幸龍らも木瀬部屋へ移籍した。[1]
所在地
師匠
- 11代:木村瀬平(きむら せへい、前1・肥後ノ海、熊本)
力士
現役の関取経験力士
幕内
前頭
- 清瀬海孝行(前13・愛知)
旧・木瀬部屋
歴史
1942年(昭和17年)5月場所限りで引退し、以降は伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方となっていた年寄・8代北陣(元幕内・桂川)が、1948年5月に名跡変更して年寄・9代木村瀬平を襲名した。9代木瀬は伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方として後進を指導する一方で、一般人に相撲を指導する相撲練成道場を開いていた。その後、相撲錬成道場の門人が大相撲入門を志願したために、1956年9月に9代木瀬は伊勢ヶ濱部屋から分家独立する形で木瀬部屋を創設した。
9代木瀬は伊勢ヶ濱部屋の所属力士で自身の娘婿となった幕内・清の盛が1967年5月場所に引退した際に年寄名跡・木村瀬平を清の盛へ譲渡して自身は廃業し、清の盛は年寄・10代木村瀬平を襲名して木瀬部屋を継承した。その後、9代木瀬は相撲練成道場の運営に戻り、さらに居合道の道場を興している。
10代木瀬が部屋の師匠を務めた時代には、小結・青葉山に十両・天剛山といった関取や、相撲甚句の名手として知られた幕下・大納川といった力士を輩出した。2000年4月に10代木瀬が定年退職を迎えるため、その直前となる同年2月に木瀬部屋は閉鎖され、所属力士3人と床山1人は桐山部屋へと移籍した。
師匠
- 9代:木村瀬平(きむら せへい、前1・桂川、宮城)
- 10代:木村瀬平(きむら せへい、前9・清の盛、秋田)
力士
小結
- 青葉山弘年(宮城)
十両
- 天剛山隆清(十5・新潟)
脚注
外部リンク
- 本郷木瀬会公式サイト 旧・木瀬部屋に所属した力士たちによるOB会の公式ウェブサイト