少弐冬資
少弐 冬資(しょうに ふゆすけ、1333年 (正慶2年/元弘3年)[1] - 1375年9月22日(天授元年/永和元年8月26日))は南北朝時代の武将。北九州の名門少弐氏当主。
少弐頼尚の次男。少弐直資(なおすけ(又はただすけ))の弟、少弐頼澄の兄。通称は孫二郎。法名は天岸存覚。
生涯
父・頼尚の娘婿(すなわち冬資らの義兄弟)となり擁立された足利直冬より偏諱の授与を受けて冬資と名乗る(兄・直資の名乗りも同様と思われる)。
この頃九州では菊池氏や征西大将軍・懐良親王などの南朝勢力が台頭し、北朝勢力、すなわち幕府側の勢力は押されていた。父・頼尚の代には直冬を擁立するなど一時期は南朝と同調していたが、直冬が没落し、南朝と共通の敵であった九州探題・一色範氏の撃破に成功して後は南朝と敵対するようになっていた。1359年(延文4年/正平14年)に起きた筑後川の戦いで菊池武光ら征西将軍勢力に敗れ、兄の直資が戦死。代わって嫡子となるが、1361年(康安1/正平16年)に大宰府有智山城を追われた父・頼尚が隠居、これを受けて家督を継いだものとされる[1]。
当主を務めることとなった冬資は大友氏や島津氏と協力して南朝勢力と戦う一方で、幕府から新たな九州探題を派遣してくれるように要請していた。時の将軍・足利義満はこれに応じて1371年、今川貞世(了俊)を探題として送り込んだ。了俊のもとで1372年から反攻に転じた幕府勢力は、徐々に南朝勢力を駆逐し、1374年には島津氏久、大友親世、そして少弐の援軍を得て一挙に南朝勢力を駆逐しようとしたが、冬資はこの頃、了俊と仲が悪かったために援軍を送らなかった。
しかしこの為、了俊に南朝側と内通していると猜疑され、翌年に冬資は了俊によって暗殺されてしまったのであった(水島の変)。享年43。その後は弟の頼澄が家督を継ぎ、少弐一族は再び南朝方と同調して了俊に抵抗した。
脚注
参考文献
- 川添昭二『今川了俊』 吉川弘文館 1964年 人物叢書
- ↑ 1.0 1.1 コトバンク_少弐冬資 とはより。