コロポックル
コロポックル(アイヌ語: テンプレート:JIS2004フォント korpokkur)は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。
アイヌ語では [p] と [b] は同一の音素であり区別しないため、コロボックル (テンプレート:JIS2004フォント) とも言われる。
アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており、名称もこのコテンプレート:小書きポックテンプレート:小書き・コテンプレート:小書きボックテンプレート:小書きのほかに、トィチセウンクテンプレート:小書きやトィチセコッチャカムィやトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)などと呼ばれることもある。
またアイヌ人の民俗研究者である違星北斗は、クルプンウンクテンプレート:小書きという発音を記録している。
伝説
アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており、地域によって差もあるが、大体次のようなものである。
伝説は地域によって差異があり「コロボックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」「コロボックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」などの変化が見られる。
十勝地方に残る伝説では、コロボックルはアイヌに迫害されたために土地を去ったといわれ、去り際にアイヌに言った呪いの言葉「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)」が十勝の地名の由来とされる[1]。
コロボックルの正体
考古学者の瀬川拓郎は、コロボックルの特徴として語られる「交易の際、相手との接触を避ける(沈黙交易)」、「竪穴式住居に住む」、「土器を製造、使用し、陶土を求めて他所の地にまで進出する」などの事例が北千島に住むアイヌの習俗と共通することに着目し、さらに北海道から樺太、南千島に広く伝わるコロボックル伝説が北千島に限っては伝承されていないことから
「コロボックルの正体は、北千島のアイヌである」との説を提唱している[2]。
なお北千島のアイヌは、北海道アイヌや和人と大きな体格差はない。
コロポックル論争
テンプレート:Main 1886年、渡瀬庄三郎が『人類学会報告』創刊号にて札幌周辺に見られる竪穴住居の跡とみられるものがコロボックルの手によって作られたものであり、アイヌ人の前にコロボックルがかの地に居住していた証拠であるという旨の発表を行い、それに坪井正五郎が『人類学会報告』第9号にて大筋賛成という意見の表明を行った。しかし『人類学会報告』9号にはさらに白井光太郎による匿名での坪井への反論が掲載され以降、小金井良精・浜田耕作・佐藤伝蔵・鳥居龍蔵・喜田貞吉など多くの研究家がこの議論に参加した。結局この論争は1913年、坪井がロシアのペテルスブルクで客死するまで続く。
コロポックルをテーマにした作品
- 1959年に佐藤さとるがコロポックルをテーマにした『だれも知らない小さな国』を出版。現在のコロポックルのイメージの礎となっている。この作品は『コロボックル物語』としてシリーズ化され、『豆つぶほどの小さないぬ』『星からおちた小さな人』『ふしぎな目をした男の子』『小さな国のつづきの話』などの続篇が書かれた。