喜田貞吉
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喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
経歴
現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で東京帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。翌年30歳の時、単著の中等教科書『日本中地理』を刊行する。この書は「総論」、「地方誌」、「住民・政治・生業」の三章からなる。[1]。
その後同大学で講師を務め、1909年(明治42年)に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、1911年(明治44年)、南朝を正統とする立場から非難され、休職処分となった(「南北朝正閏問題」)。
1913年(大正2年)から京都帝国大学専任講師、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで教授。1923年(大正12年)、前年に設置されたばかりの東北帝国大学国史学研究室の講師となり、古代史・考古学を担当。同研究室草創の基礎を築いた。
仙台市にて69歳で没する[2]。
研究史上の意義
- 独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。
- 「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(1910年(明治43年))を歴史的に正当化したと批判される[3]。
- 法隆寺再建・非再建論争では、再建論の論陣を張った。これは後に正しいことが証明された。
- 被差別部落研究の先駆者としても評価されている。
主な著作
- 『喜田貞吉著作集』全14巻(平凡社、1979-82年)
- 石器時代と考古学
- 古墳墓年代の研究
- 国史と仏教史
- 歴史地理研究
- 都城の研究
- 奈良時代の寺院
- 法隆寺再建論
- 民族史の研究
- 蝦夷の研究
- 部落問題と社会史
- 信仰と民俗
- 斉東史話・紀行文
- 学窓日誌
- 六十年の回顧・日誌
脚注
- ↑ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 203ページ
- ↑ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 209ページ
- ↑ テンプレート:Cite book