曽蔭権
曽蔭権 曾蔭權 The Hon. Donald Tsang | |||
ファイル:Don&Selina.jpg |
| ||
任期 | 2005年6月21日 – 2012年6月30日 | ||
---|---|---|---|
元首 | 胡錦濤 | ||
| |||
出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:Flagicon 香港 | ||
配偶者 | 曾鮑笑薇 |
曽 蔭権(そう いんけん、1944年10月7日 - )は、香港特別行政区の前行政長官。通称ドナルド・ツァン。
経歴
1964年に香港華仁書院大学予科卒業後、ファイザー製薬の販売員を2年間勤めた後、1967年にイギリス統治下にある香港政庁に入庁して公務員となる。入庁時はノンキャリアである二級行政主任であったが、1971年に幹部候補(キャリア)である政務主任試験に合格したのをきっかけに昇進を続ける。主に経済畑を歩み、1977年にはアジア開発銀行に出向した。アジ銀での経験が評価され、1981年にハーバード大学ケネディスクールに留学し、行政学修士を取得した。その後、経済・財政政策の専門官として、通商局長などを歴任する。1995年には華人としては初めて財政長官に就任する。1997年の香港返還前日には、イギリス政府よりナイト・コマンダー(司令官騎士 KBE)を受勲し、サー(Sir)の称号が与えられた。
返還後
返還後も財政長官を留任し、アジア通貨危機の際には香港ドルの防衛に尽力した。2001年に陳方安生が特区政府No.2ポストである政務長官を辞任するとその後任として就任した。2002年には大紫荊勲章(GBM)を受勲している。2005年3月に董建華が行政長官を辞任すると、香港基本法の規定により行政長官代行に就任した。補欠選挙は同年7月に行われるため政務長官の後任は置かれず、ツァンがそのまま兼任することとなった。
2005年5月26日、7月に行われる補欠選挙に立候補するため、政務長官および行政長官代行職を辞任した(基本法の規定により、政務長官の身分のまま立候補することはできない)。
行政長官に就任
董建華の辞任直後から様々なルートにより、中央政府意中の後任人選であることが伝えられていた。6月16日、ツァンは796名の選挙委員のうち674人の推挙および40人の支持をとりつけ、他に立候補に必要な100名以上の推挙を獲得した者がいないため、自動的に次期行政長官に当選した。6月21日、中華人民共和国国務院より正式に行政長官に任命され、同24日には北京にて宣誓を行い、行政長官としての職務を開始した。
2005年、立法会に政治体制改革政府案を提出し、第3期行政長官選挙における選挙委員会の定員増加や、立法会議員選挙における議席数の増加を目指したが、普通選挙の早期実施を主張する民主派議員の反対により、法案は否決された。
2007年3月25日に実施された第3期行政長官選挙は、第1期選挙以来初めて複数候補が争う選挙となり、ツァンは649票を獲得して再選した。
人物
8人兄弟の長男。父の曽雲、弟の曽蔭培はともに香港警察の警察官であり、曽蔭培は香港警察トップである警務処長を務めた。夫人はマカオ出身の曽鮑笑薇で、1969年に結婚した。
敬虔なカトリック教徒であり、毎朝ミサに参加することで知られる。このことはイギリス統治下の香港政庁の官僚出身であり、イギリス政府から叙勲を受けていることとともに、香港左派(親中派)から警戒される原因となっている。
トレードマークである蝶ネクタイを愛用していることから、「蝶ネクタイのツァン(煲呔曾、Bow-Tied Tsang)」のあだ名がある。
訪日歴はプライベートな訪問を含め多数あり、財務長官・政務長官として公式訪問しており、行政長官としては初めて日本を公式訪問した。
香港ラジオ局英語放送の番組で、「人民が極端に走った場合、文化大革命のような運動が出現する(中略)。人民がすべてを掌握したとき、その地域の管理は困難になる」と香港の民主化を文化大革命に例えるような発言をしたことで、香港の各界およびメディアから多くの非難を浴びた。
外部リンク
テンプレート:Flagicon香港特別行政区
|
---|